tachanのブログ

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いつも間にか古希に至った昨年、10年前に始めた「還暦野球」に、さらに「古希野球」が加わった。つまり、今年は還暦12シーズン目、古希2シーズン目とうことになる。

 

北海道にはこの二つの世代に、1000人の“球爺”がおり、それぞれが、イメージはプロの○○選手、または若かりし頃のバネのごとき?肉体を駆使した攻守走の場面々々が脳裏に刷り込まれている。その殆どは、過去の戦歴の中で最高の場面のみを繋ぎ合わせているといっても過言ではない。今や球爺は、当時のバネも伸びきり、イメージとの乖離が大きくなってるにも関わらず、“俺流のスタイル”にこだわり、練習日や試合日は何においても優先させる我ままを通しているのである。

 

一般的に人間は楽しきこと、嬉しきことなど“感動できる場面づくり”のためには、寸暇を惜しまず、お小遣いも惜しまず、そこに入り込むようだ。

どの選手、どのチームも大なり小なり、こうしたメンタル上に成り立ってることが、遠征先の居酒屋で、ばったり出会った他チームといえど、みんな仲間として球爺共通の話題(や歌)が始まる。

 

私が属するチームは、還暦・古希とも18名の陣容で、道内4234+8)チーム中2番目に少ない。

この年令層での18名構成は厳しい。つまり誰か彼かが怪我に見舞われるからである。

何年か以前には、ベンチに残った怪我の選手を含め10人で試合に臨んだことがある。

ということはもう一人怪我したら、棄権扱いというぎりぎりの場面を経験したことがある。

 

いかに優秀なプレーが出来ても怪我には勝てない。

実際の試合では、仮に自分の方がイメージどおりのプレーをしたとしても、クロスプレーでの動きや、過剰な進塁(コーチのイメージや本人の暴走)や、あるいは連携プレーでのボール処理など、異なる形態が次々と紙芝居のごとく発生する。

その際、相手やボールの動きに対し、瞬発的な判断と行動がとれないとき“怪我に直結”してしまう。

これらの殆どは、高校球児のバネなら苦もないことだが、我々球爺としては、どうしてもイメージと現実のギャップが出てしまう場面なのである。

 

かく言う私も還暦になってすぐの大会で、11年のブランクを押して出たところ、体も軽く意外に打てたのである。試合を重ねるごとにすっかりその気になってくるもう一人の自分がいて、迎える打席ごと打っては走り、守っては攻守好捕と無我夢中で走り回った。

その結果、道内優勝の栄誉を得たものの、見るも無残な姿で東京(当時転勤先から臨戦)に戻った。

翌日の病院で医師いわく、膝から足指まで殆どの筋がズタズタ状態であり、全治2カ月と。

つまり脳裏に描いたイメージプレーに対し、体の方の追従が遅れてたという事例である。

 

時に傍らで見てる息子や娘たちいわく、「まるで珍プレー特集」だとこき下ろされても、球爺は至って真剣そのものであることは言うまでもない。

特に試合途中で、「爺ちゃん頑張れ」との孫からの声援には、昔の彼女(妻)から掛けられる声援より、一層力を発揮できるのがとても不思議である。どの球爺も何度か経験してるという。

 

スポーツの世界でいう「心・技・体」は、まさに心の動きと、技術の錬磨と、体の追従を言ってる。

俺流の解釈では、先述のイメージに当る部分は、心の動きのもう一つ奥にある自分の存在であり、その指令を受けた心の世界では、日頃の技術錬磨と体の追従力の度量との偏差を推し量りながら、その差をなくする働き(=ギャップコントロール)をしてるのであろう。

 

 スポーツ界で名をはせる選手、あらゆる分野の技能職人の方々、あらゆる研究を収めた学識者など、国際的に認知された緯人者たち、または認知されずともこつこつとその道を極めんとされてる方々に共通してることは、「いずれも心の奥の自分との闘いに挑んでいる」ということである。

 彼らは、心を動かす要因の一つひとつを克服し、動かざる心(=静=静の究極は動=集中力=パワー)を磨き、今日より明日への向上を求め、常に現時点のギャップをコントロールしてると思われる。

そしていつの日か突然、境地が開かれるのだと思う。だからこそ、継続は力ともいわれるのでしょう。

 

 一般的に人間は弱いもので、心の世界だけでは、何んらかの動機で動かされ易いものである。

 「なぜ山に登るの?そこに山があるからさ」という受け答えがよく引用されるが、挑戦に垣根はなく、誰しも目標を決めれば挑戦できる。従って常に自分次第だということになる。

また、裾野(円周)のどの道から歩こうとも、頂上は一つで目指す目標はいずれも同じ、どこからスタートしても同じであり、思い立ったら吉日と言われる所以もここにある。

 

 私ごときも野球(道)を通じて、流れ星のようにほんの瞬間のこうした心鏡がよぎることがある。

残念ながら瞬間の域を出ず、まして毎日のことではない。一般人ゆえの雑念多き中でのことである。

また球爺たちの中には元○○に所属など沢山いるが、それぞれいろんな野球人生を歩んできたと思う。

しかし先述のごとく、「今どれだけ出来てるか」の集合体がチーム力となって現れるのである。

 

また、野球はホームランで黙らせるなど、点とりゲームと思われがちだが、実はいかに相手に点をやらないかというスポーツである。サッカーも然りしっかり守ってチャンスが来たらチームで攻める。

要は試合の流れをいかに自分の味方にするか、味方にした方が有利な展開に持ち込めるのである。

流れを作りだす役割、流れに乗る役割、流れを引き戻す役割など、それを感じて各々が役割発揮できるか出来ないかがポイントになる。

 

野球は一人ではできない。仲間がいてできるスポーツであり、その間でボールがつなぎ役になる。

打つも守るもボールが相手。その緩急やバウンドの変化など、まるで忍者のごとく、それぞれの空間をあざ笑うかのように過ぎ去ることもあり、ジャストミートや、すっぽりグラブに納まることもある。

その変化に自分の方がどれだけ追従し、ギャップコントロールできるかが今年も楽しみである。

1000人の球爺たちは、きっと窓の雪景色で晩酌しつつ同じことを想ってることだろう。

廃れたバネの修復と「今どれだけ出来てるか」・・・・と。