今日は原爆の日 | こうちゃんのブログ

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昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
 この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
 「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。

 原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
 爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
 原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

現在の原爆ドーム

 

私が、平和記念公園の原爆資料館を初めて訪れたのは小学5年生の時でした。

写真や人形や遺留品などを目にして、子供ながらに胸が苦しくなりました。

一緒にいた祖母は、涙が止まらなかったんです。

というのも、祖父は第二次世界大戦で戦死して、昭和20年当時焼け野原になった松山市を目の当たりにしているからなんです。

原爆ほどではないにしても、多くの方が犠牲になっています。

 

今ウクライナで多くの方が戦争の犠牲になり、命を落とした方や四肢に障害が出た方がいらっしゃいます。

この広島・長崎の悲劇を繰り返して欲しくないと思っていて、核兵器の使用をほのめかせてるロシアの大統領に対して、はらわたが煮えくり返るような思いをしています。

多くの犠牲者や後遺症被害者を出したチェルノブイリ原発事故の事を知らないはずはないと思うのですが、それでも反撃を継続するのであれば核兵器を使用するとの発言をするという事に、人として欠落しているものが多いのではと思いました。

そもそも、この侵攻行為はロシアの身勝手な憶測によって、ウクライナを攻撃し始めたんです。

その発端が、NATOにウクライナが加盟申請したことによって、ロシアに脅威がもたらされるという事なんです。

結局のところ、スウェーデン・フィンランドがNATOに加盟を表明し受理され、ウクライナも加盟申請し、ウクライナは加盟の承認はされていないものの、長期的安全保障の枠組みを提示されています。

そして、ロシア・ウクライナ双方に繋がりがあり和平の仲介役を担っていたトルコのエルドアン大統領はロシアの大統領の力が低下したと見て、ウクライナはNATOに加盟すべきであると進言したそうです。

加盟に難色を示していたハンガリーも、エルドアン大統領の発言に同調しているようなので、承認されるのも時間の問題かと思っています。

 

正直言って、このウクライナにロシアが侵攻したことで、食品の価格上昇など大きな影響をを受けています。

 

このような争いで犠牲になるのは、多くの民間人や子供や高齢者や女性なんです。

攻撃によって多くの病院や商業施設などが破壊され、経済的損失・人的損失が計り知れないほど出ています。

これを止めるには、ロシアの大統領及び同思想を持つ高官を一人残らず拘束する事しかないと思います。

 

一日も早く、この忌まわしい戦争が終結することを祈ります。

 

最後まで御覧頂きありがとうございます、こういった悲惨な戦争の事を風化させないように、毎年定期的に書こうと思っています。