使命に生きた偉人伝説 | からしまひろこの小春日和~笑顔で波乱万丈!?〜

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波乱万丈にへこたれない(⌒-⌒; )
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ありがとうございます!


どえりゃあ 長い事 間があいてまったがや〜〜!!


なんで名古屋弁やねんって??


育ての母が岐阜出身で   
私は  ほぼ こういう中部地方の言葉で育てられましたもんで…


大阪弁に混じって、たまに こういう言葉が ポロンとでます。ニヤニヤ


最近何をしてたか、と言いますと


世の中 ステイホームだった期間、スタッフ 人員不足で  まったく仕事が休めませんでした!(/TДT)/


…瀕死でした。



その合間に 仕事の研修などで 定期的なレポートを出さねばならず  福祉の勉強を復習する事に…


しかしながら  夜は、仕事の疲労から、
即身仏のように座ったまま 寝てしまうので…ガーン


早朝4時頃に起きて  コツコツとレポート作成等やっとりました。


ちょっと 学生時代の一夜漬け気分でありました…



で、私の悪い癖なのですが、昔から 勉強すると、必ず脱線する!あせる



要点と全然 違う所に ハマって調べ出したりして とことん 迷走します。


今回 脱線したのは 明治時代の偉い篤志家の話です。



コロナショックで 不安定な世の中を生きる中で、元気を貰える偉人伝説…


暗闇で 一筋の光を感じる話しでした
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福祉の勉強した方は 聞いた事あると思いますが、、石井亮一という人のお話しです。


今、世の中の事に対して、政府の対応に文句を言う言葉を よく耳にしますが

アベノマスクはいつ来るんだ〜〜?とか。

今更いらんで〜〜とか。

あれに何億かかっとんね〜〜ん。とか。


でも、多くの大阪人は 吉村知事の事は メチャ讃えてます。


それは 吉村さんが 国の遅い対策を待たずに、自分の責任で ドンドン進んでくれたからというのがあるのでしょう。


歴史をちょっと見ておりますと


政治って いつの世も完璧な時代などなくて、庶民の苦しさなど ほったらかし!!で来た時代がほとんどだったという事がわかります。


でも そういう時にこそ 出て来るのが 
民間の 凄い人達!


政治や お役人のする事が トロくさくて 待ってられないから、ドンドンと自分達で立ち上がって 世直ししちゃう!


その一人である 石井亮一さんは 日本で初めて 知的障害児の施設を作った人です。


佐賀県で生まれた石井さん !


子供の頃から秀才だったようで、旧鍋島藩の奨学生に選ばれます。


科学者になりたくて 工部大学(現在の東大工学部)を受験するも 

身体検査で不合格!笑い泣き



でも…科学者への夢を諦められず 


アメリカのコロンビア大学への留学を目標として 英語習得のために立教大学で英語を勉強します。


その頃キリスト教の教えに感銘を受け 洗礼を受けクリスチャンになります。


キリスト教の 「信仰。 希望。 愛」の三徳が 後々 石井さんの人生に大きな影響を与えます。


そして立教大を卒業後 


念願のコロンビア大学に
留学のために受けた
身体検査でまたもや不合格!笑い泣き


渡米を諦めらめた石井さんは 母校の立教大の付属校である立教女子大で教諭となり、24歳の若さで教頭となり、学校の制度や教育の改革を行います。


そして その傍、孤女教育施設の運営にも関わります。



その頃  岐阜県で 
濃尾大震災が起こり、
親を失い孤児となった少女たちが、
人身売買されている事に衝撃を受け


「女子に性の尊さを知らせずして何が女子教育だ」
と義憤を感じ 急遽現地に出張。


この被災地で 多くの民間篤志家が
 孤児救済をして 後世に残る施設などを設立するのですが、


石井さんは 20名の孤女を私財を使い保護します。


そして   日本で初の女医となった荻野吟子女医の自宅を借りて 孤女学院を作りました。


そして 一人一人の教育に精励しますが 


この中に 知的な発達の遅れが認められる女児が2名いたのです。


石井さんは この二人に深い関心持つのですが、当時は 知的障害に対する処置や研究はまったくされておらず


知的障害は 「白痴」と呼ばれ 人権侵害が甚だしい状態でした。


石井さん、この問題に取り組む事を決意!



渡米して 米各国の大学で研究に勤しみ、知的障害時教育の学祖 エドワール.セガンの未亡人から 生理学的教育法学んだり


あのヘレンケラー女子とも会見したり


色んな勉強をして…
帰国後  孤女学院を 滝乃川学院と改称して 知的障害者の専門機関とします。



生涯独身の覚悟だった石井さんですが、

そこで 知的障害児を一人で育ててきた 園児の母である 筆子さんと結婚し 二人で 学園を 発展させていきます。


その後 時代の流れで、経営難を幾度も乗り越えたものの、石井さんは 個人的に
私財をほぼ投げ出して破産状態であったようです。


ある時 別の篤志家から 

学園内に石井夫妻の居宅を寄付で建てたいといと 申し出がありましたが  石井さんは


「私達の生活など、どうにでもなる」と固辞し、夫妻は学園の片隅に畳を敷いて居間としていたとの事。



生涯無欲で  人の為に 激動の人生を駆け抜けた人でした。


亡くなられた後は 遺体は石井さんの遺言により献体に出されたようです。
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その命日が  偶然にも   まもなくの6月14日。


これまた、偶然にも 亡くなった元夫  困ったオッちゃんの命日と同じ日でありました…ポーン汗


偉人伝説と同時に 並べるのもどうか?と思いますが、


まあ オッちゃんも ある意味 破産状態で激動の人生を駆け抜けた一人でしょう。滝汗


石井亮一さんの人生って こうやって見てみると、ほぼ行き当たりバッタリ?


起こってきた問題、目の前のやるべき事だけに 全力疾走してきた人という気がします。


使命に従っただけだ…

そんな声が聞こえてきそうです。



もし あの時…


石井さんの身体が 丈夫で、身体検査に合格していたら

東大工学部かコロンビア大学で 科学者となって、 全く違った人生を送られていたでしょう。


そして、知的障害者の福祉は 発展がずっと遅れていたでしょう。


一見、失敗や不運と思われる出来事は、その時はわからなくても、後々 深い意味があり、

人知を超えた神の領域のようなものがあり


使命に向かっていく運命に 修正されていってるともいえそうです。



数々の名言を残した石井亮一さんですが


その中でも有名な言葉が


人は誰かを支えている時は 自分の事ばかり考えているけれど  、実は相手からどれだけ 恵みを貰っているかは 気づかないものだよ 。

というものがあります。
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不運な運命に
流されているような気持ちになる時も 


自暴自棄になる事なく

全力で流されていけば

使命というものが 見えてきます。

      友蔵の弟子 俳句にならない俳句



          いつも読んで頂き  お付き合い
           本当にありがとうございます!