西郷について書くことはとても難しいです。そもそも僕は決して西郷隆盛ファンではありません。世の中には熱狂的な西郷ファンが居て、僕はむしろ何故それほどまで西郷に惹かれる人が多いのか不思議に思っていたというのが本音です。ですから西郷について通り一遍のことを書いても仕方がありませんし、それでは西郷ファンには叱られそうな気がします。西郷を知るために、かつて山形の鶴岡に行った時に「南州翁遺訓」を買って読んでみたのですが、あまりピンと来ませんでした。そもそも西郷の功績とは何なのか。明治維新において大きな働きをしたことは確かですし、勝海舟との話し合いによって、江戸での戦争を最小限に抑えた事には大きな意義がありました。しかし征韓論での対立からいわゆる明治6年の政変が起こり、彼は鹿児島に帰ってしまいました。そして西南戦争で政府軍と戦い、最後は苦難の道を辿って鹿児島まで戻り、城山で銃弾を受け亡くなりました。元より彼はいささか分かりにくい人物ですし、鹿児島に帰ってからの彼の行動は矛盾に満ちていますので、それを合理的に説明しようというのに無理があるのでしょう。江藤淳の「完本南洲残影」は西南戦争における西郷に絞って書かれていますが、著者は西郷の行動を説明しようとはしません。ただ彼が熊本で政府軍に敗れた後の退路を辿るだけです。僕もその道筋を追いながら彼の意図よりも、なぜ多くの人が西郷に惹かれ続けているのかをそこからちょっと考えてみたいと思います。

熊本から南九州の山中を彷徨った薩摩軍は明治10年9月、鹿児島の城山に辿り着きます。この時すでに多くの兵が戦死して、残る兵は300名余りに過ぎませんでした。圧倒的な政府軍に対して奇襲攻撃を仕掛けたりしますが、大勢を覆すことは叶わず最後の決戦の日を迎えます。かつてから膝を痛めていた西郷は逃避行の間も輿に担がれていたのですが、この日も輿に乗って鹿児島市内に向かい進軍しました。そして2発の銃弾を受けた西郷は、傍にいた別府晋介に向かい「晋どん、晋どん、もうこん辺りでよかろ」と声をかけ、それを承知した別府晋介が西郷の首を斬り落としました。西郷は最後は切腹ではなく、戦傷を受けたので介錯されたという形を取りたかったのです。自決ではなく戦死を選んだのです。死を生の終結点としか考えられない現代人から見ると、そこにどれだけの違いがあるのかよく分からない、という事になりますが、明治維新を経験してもあくまで武士であった西郷を初めとする薩摩軍の面々にとって、そこには重大な意味があったと考えられます。切腹とは自らの不始末の責任を取る、あるいは刑罰として主君から賜るものという意味が強かったのです。西郷が亡くなったのが1877年、それからすでに150年近くが過ぎていますので、現代人が同じような死生感を持つ事は不可能ですし、持つ必要もありません。しかし死を単なる生の終結点としか考えないのでは、死の本当の意味も、ひいては生の本当の意味も見えてこないのではないかと思います。この本は僕に人間の死に方を再考させる一つの手がかりを与えてくれたような気がします。

著者の江藤は本編の付録のような形で、西南戦争後に作曲された陸軍のいわゆる分列行進曲とそれにつけられた歌詞「抜刀隊」について述べています。ちなみにこの行進曲は現在でも陸上自衛隊の行進曲として使われています。抜刀隊とは当時の政府軍は農民出身者が多かったために、西南戦争での白兵戦では士族出身の薩摩軍に全くかないませんでした。そこでそれに対抗するために、士族出身が多かった警察から選抜された兵士で編成されたのが抜刀隊でした。その歌詞の1番にはこんな部分があります。「我は官軍我が敵は天地容れざる朝敵ぞ。敵の大将たる者は古今無双の英雄で、之に従う兵(つわもの)は共に剽悍決死の士、鬼神に恥じぬ勇あるも」。西郷はかつてのアテルイや平将門のように、中央に反逆して滅びた英雄としての地位を、すでに当時から得ていたように思われます。そうした英雄を鎮魂する事によって国家の安寧がもたらされるという信仰が脈々として伝わっており、明治政府もその意義を認めていたのではないでしょうか。