すでに亡くなりましたが、トルコにアラ・ギュラーという写真家がいます。モノクロのドキュメンタリーで名を馳せ、ヨーロッパでも活躍して2018年に亡くなっています。トルコの土門拳という感じでしょうか。彼の「A Photographic Sketch on Old Isutanbul」という写真集があります。僕は20年ほど前にイスタンブールに行った時に、立ち寄った書店でこの写真集を見つけてどうしても欲しくなり、重いのをスーツケースに入れて持ち帰りました。その時にはアラ・ギュラーがどんな人物であるかも全く知らなかったのですが、その写真集のモノクロの写真の数々、かつてのイスタンブールの裏町の風景や、貧しかった人々のスナップショットに惹きつけられてしまったのです。
僕はトルコを2度訪れており、イスタンブールの街は大好きです。とは言ってもあくまで旅行者としても立場でしかないわけなのですが、この写真集の風景や人々を見ると、何か懐かしさを感じます。これは考えてみると不思議な事です。本来懐かしいとは、自分自身が体験した過去の事や会った事のある人を思い出した時の感情です。自分自身が体験していない昔のイスタンブールの風景や人々に懐かしさを感じるのはなぜなのでしょうか。どうやらそこには個人の経験だけではなく、人類の共通の経験というものがありそうです。多くの人が童謡の「ふるさと」に懐かしさを感じると言いますが、その歌詞を見てみると「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」です。この歌が作られた明治時代ならともかく、故郷でこんな体験をした事のある人は、1万人に一人もいないはずです。まあ音楽であれば小さい頃からメロディーを聴いているので、懐かしさを感じることもあるでしょうが、純粋な視覚でも里山の写真に懐かしさを感じる人は多いはずです。子供の頃から都会で育っていても、そうした感情が自然に湧いてくるのではないでしょうか。
かつて日本の景観工学の創始者の一人である樋口輝彦は「日本の景観ーふるさとの原型」において、日本人が懐かしさを感じる風景をいくつかのタイプに分類して、それをふるさとの原型として提示しました。余談になりますが、樋口は東大で僕の自転車部の先輩で、日本各地を自転車で巡る中でこのふるさとの原型という考えにたどり着いたそうです。彼が分類したタイプの妥当性はともかくとして、僕たちが懐かしさを感じる風景というものは確かにありそうです。僕はそれを学生時代の奈良旅行で、飛鳥の甘樫丘に登って周囲を眺めた時にそれをはっきりと感じました。もちろん僕がその後の歴史を知っているためのバイアスもあると思うのですが、この景色を初めて眺めた古代人も、ここが自分たちのふるさととなるべき土地だと感じたからこそ、あそこに都を建設したのではないでしょうか。それは自然と人間とが共生して行けそうだという予感に基づくのかもしれません。
こうした自然の風景だけではなく、都会のある意味でわい雑な空間に僕たちが懐かしさを感じるのは、そこに人間の営みがあるからだと思います。アラ・ギュラーの写真集のイスタンブールの細い坂道や、崩れかけた古い民家に惹かれたのはその為でしょう。最近の東京の再開発を見ていると、どこも同じような高層ビルの乱立で、そこには人間の営みが感じられません。最初は物珍しさから人が集まっても、人間の営みが感じられず、懐かしさを生み出すことがなければ、あっという間に飽きられてしまうと思います。都市計画、都市開発の専門家たちには、自分たちが感じる懐かしい光景は何かという原点に立ち返って、人間の営みが感じられる街づくりをして欲しいと思います。