僕は生まれたのが満州で、引き上げ後には短期間、父の故郷の長野で、それからしばらく千葉県の蘇我で暮らしました。我が家族は住む場所がなく、親戚の家に居候として転々としたわけです。そして千葉県船橋市の本郷町に住み、数年後に父が念願の新築の家を同じ船橋市の東中山(当時は二子町)に建てて引っ越しました。ここは京成の中山競馬場前駅のすぐ近くでしたが、この駅はずっと競馬開催の時だけ営業する臨時駅でしたので、駅前はほとんどが農地で店は一軒もありませんでした。駅から少し離れた場所に広大な土地を有する銀行家の豪邸がありましたが、その他には3軒の家が並んで立っているだけでした。その3軒の道を隔てた畑を整地して家を新築したのですが、我が家と一番近い家にはWさんという老夫婦が住んでいました。

僕から見ると随分とお年寄りに見えたので、僕はWさんはずっとそこに住んでいると思っていたのですが、実は二人は新婚で東京から引っ越してきて間もなくだったのです。ご主人は叩き上げの職人で、墨田区で大理石の板を作る会社を営んでいました。奥さんはその近くで小料理屋を営んでいたのですが、奥さんを早くに亡くしたWさんと懇意になり、彼が隠居するのを機に結婚して、この東中山に新居を構えたというわけなのです。新婚ですから二人はとても仲睦まじく、ほのぼのとした感じのご夫婦でした。ご主人は小柄ですが職人らしいがっちりした体の持ち主で、体に合わないような大きな手をしていました。しかしとても器用で、自宅の垣根や濡れ縁の修理など、自分で手早くこなしていました。奥さんはのんびりした喋り方の持ち主でしたが、さすがに料理が上手で、煮物などを作ると我が家にも分けてくれるのです。二人とも明治生まれで、小学校を卒業してすぐに働き始めたようですが、それが当たり前の時代だったのです。昭和初めの世界恐慌も、第二次世界大戦の東京大空襲も乗り越えて、船橋の畑の中の家に二人だけの終の住処を見つけることができたのですから、同世代としては、幸運な人生であったと言えるのかもしれません。

僕の父方の祖父母はすでに長野で亡くなっており、我が家は母方の祖父母と同居していました。僕を可愛がってくれた祖父はこの東中山の家に引っ越して間もなく亡くなりましたが、祖母は長命で昭和天皇の葬儀をテレビでじっと見ていた直後に脳出血で倒れ、病院で亡くなりました。僕は結婚するまでこの家で暮らしたのですが、家を出る時にはお向かいのWさんご夫妻はまだ元気だったと思います。それから僕は医師としての仕事が忙しく、なかなか両親の家に行く機会がなくなってしまったのですが、たまたま実家を訪れた時に、母からWさんの奥さんが先に亡くなった事、ご主人が一人暮らしは難しく、墨田区の子どもさんの家に戻ったという話を聞いたような気がします。僕は結局この家で20年弱を過ごしたことになりますが、中学からは世田谷まで朝早くに起きて通学しましたので、ご近所との付き合いは少なくなってしまいました。しかしなぜか周辺になかなか新しい家が建ちませんでしたので、このお向かいの老夫婦の事がとても印象的で、二人の面影を今でも思い出す事ができます。昭和が終わって35年、昭和は遠くなりにけりです。

写真は現在の京成東中山駅。このすぐ右手に我が家とWさんの家がありました。