イタリアのピアニストで、長く世界最高のピアニストと考えられてきたマウリツィオ・ポリーニが3月23日に82歳で亡くなりました。彼は僕たちの世代にとってずっとアイドルでした。彼が有名になったのは、18歳の時に1960年の第6回ショパンコンクールで圧倒的な評価で優勝した時でした。しかし彼はその後すぐにコンサートや録音を開始せずに、しばらく沈黙を守りました。といっても演奏をやめていたわけではなく、当時イタリア共産党が主導して行なっていた労働者のためのコンサートには出演して、技術をさらに磨くと共にレパートリーを増やしていたようです。後にポリーニはこの時の経験は貴重であったと述べています。

1971年からドイツグラモフォンと契約してLPをリリースし始めると、そのすべてが圧倒的な完成度と気迫とで賞賛を浴びて、彼は一気にスターダムに上り詰めます。ショパンのエチュードや前奏曲の評価が高いのですが、僕の好みとしては、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3楽章」とプロコフィエフの「ピアノソナタ第7番(戦争ソナタ)」の盤の魅力が他と比べようがないと思っています。これによりそれまでポピュラーでなかったこの2曲が他のピアニストのレパートリーにも加わるようになり、更に今でもスタンダードとして君臨しています。彼は1974年の初来日以来何度も来日していますが、毎回満席の聴衆を集めています。僕が最初に彼の実演を聴いたのは1976年の2回目の来日時でした。この日の前半に弾いたバルトークの「戸外にて」が素晴らしい演奏で、感動しました。彼よりも前にラドゥ・ルプーのコンサートでもこの曲を聴いていたのですが、やや抒情的なルプーとは違ったシャープで寂寥感の漂う演奏は圧倒的でした。しかしクライマックスは後半のブーレーズの「ピアノソナタ第2番」でした。恐るべく複雑なこの難曲を暗譜で弾くだけでも驚きでしたが、難解と言われる現代曲でこれだけの感動を与えることのできるポリーニというピアニストの凄さが実感できました。アンコールのウェーベルンも名演で、この日のコンサートは今でも僕の音楽体験の最高の位置を占めています。

その後も彼のコンサートには何度も行っていますが、貴重だったのは同じ年の夏にザルツブルグで、秋には東京で彼のコンサートに参加した事です。ザルツブルグでの会場はフェスティバル・ホールで、ピアノ演奏の会場としては大きすぎますが満員でした。彼がステージに登場すると”何と!”聴衆が一斉にストロボを光らせて撮影を始めるのです。ピアノの前に座ったポリーニはそれが落ち着くまでしばらく演奏を開始できませんでした。音楽祭ですから音楽ファンだけではなく観光客も多かったのだと思いますが、僕にとっては驚くべきまた残念な光景でした。演奏はポリーニですから悪くはありませんでしたが、感動的とは言えないものでした。そしてその同じ年の秋に日本でもポリーニの公演がありました。会場となったサントリーホールは開演前から期待で静まり返っています。集中力を高めていたのでしょう、ステージの袖から登場したポリーニはピアノに足早に駆け寄ると、座るのももどかしいように演奏を始めました。この時の演奏は彼らしい緊張感に満ちた素晴らしいものでした。それまでにもポリーニはインタビューで日本の聴衆の素晴らしさを繰り返して強調していましたが、僕はリップ・サービスだと考えていました。しかしこの時初めてそれは事実であり、日本の真摯な聴衆によって彼の演奏のレベルも高まっているのだという事を実感したのです。演奏とは奏者と聴衆との相互作用であり、その意味で日本の聴衆は彼に対する敬意によって、おそらく世界のどこよりも素晴らしい演奏を聴く事ができていたのです。

ポリーニが亡くなったことは本当に残念ですが、コンサートの素晴らしい記憶と残された貴重な録音の数々は、いつまでも僕にとっての宝物として残ってゆくはずです。