日本で最初のセクハラ裁判は、1992年に福岡地裁で判決が出た裁判と言われています。しかし”模擬”裁判ではありますが、実は何と150年前にセクハラ裁判が行われているのです。以前にこの事について医療系雑誌の随想に投稿した文章をここに載せておきます。この間の150年がなんであったのか、考えるきっかけになれば幸いです。

 

日本で最初のセクハラ裁判

 

いま世の中では、セクハラに対する眼が極めて厳しくなっている。そのために職場の女性に気軽に声をかけることもままならないと、戦々恐々としている男性も多いのではないだろうか。もちろんセクハラは許してはならないことであり、それが問題であることがこのように認識されてきたということは、ある意味で日本の社会の成熟を示していると考えても良いであろう。

ではセクハラという言葉自体は最近のものであるにしても、女性(最近では男性に対するセクハラも問題になるということであるが)に対する性的ないやがらせや侮辱・からかいが許されないものとされるようになったのは、いつ頃からなのであろうか。テレビの時代劇に出てくる「ふっふっふっふ、まあよいではないか」というエロ殿様の腰元に対するセクハラは、問題であるとはされても追求されることはなかったであろう。これは大店の旦那や番頭による女中に対するセクハラでも同じであったと思われる。身分や性差による上下関係が明確に規定され、自明なものとなっている社会では、セクハラという概念が成立しないであろう事は容易に理解できる。


では明治時代にはセクハラは問題であるとされたのか、そしてセクハラが裁判の対象となり判例として残っているのか。この問題に明確な回答を与えるためには、専門家による膨大な研究が必要であろう。それは全くの素人である僕の手には余る仕事である。ただ最近、ある本の中に日本で最初との証明は難しくても、もっとも古い例の一つと考えられるセクハラ裁判が行われたという記述を発見し、強い印象を受けた。それについて書いてみたい。以下の記述は、田中 彰著、岩波現代文庫「岩倉使節団『米欧回覧実記』」によっている。


中学や高校で日本史を勉強した人は必ず、「岩倉使節団」について習うはずである。時は明治4年、1871年、右大臣であった特命全権大使岩倉具視を団長とする、明治政府の最初の大使節団は、なんと1年10ヶ月にもおよぶ欧米各国の視察を行った。この使節団の報告がプロシアをモデルとした富国強兵という、その後の明治政府の方向を定めたともいわれている。明治4年11月12日の横浜出港時には、一行は46名の使節団、18名の随従者、43名の留学生、計107名から構成されていた。この中に5名のわが国初の女子留学生が含まれていたことはよく知られている。もっとも年少であったのが、後の津田塾大学の創設者津田梅子、数え年で8歳であったという。


横浜から最初の寄港地であるサンフランシスコまで23日間の船旅であったが、この船中で女子留学生へのセクハラに対する模擬裁判が行われたというのである。女子留学生にちょっかいを出したのは旧幕臣で二等書記官の長野桂二郎、彼は万延元年の江戸幕府の遣米使節団にも通詞として加わり、アメリカで女性から大いにもてたという経歴を持っている。彼が名前の記載はないが、この女子留学生の一人にセクハラを働き、それを女子留学生が副使の大久保利通に訴え出たために、騒ぎが大きくなった。そしてその処置がもう一人の副使である伊藤博文にまかされ、その結果、模擬裁判が行われることになった。


裁判官は伊藤博文と理事官山田顕義が担当し、弁護士や書記もそれぞれ割り当てられ、実際に模擬裁判が行われたという。その結末については残念ながらこの本には記されておらず、岩波文庫から出ているこの使節団の報告書、久米邦武編「米欧回覧実記」には、残念ながらこの模擬裁判についての記述そのものが見あたらない。


これはあくまで模擬裁判であり、実際の裁判官や検事、弁護士が行ったわけではない。それに行われたのが、公海上であるので、日本国内でもない。だから厳密に言えば、「日本で最初のセクハラ裁判」というのは、二重に誤りである。しかし“模擬”裁判であるとはいえ、セクハラに対する裁判が日本人からの申し出により、日本人により行われた事の意義は大きいと考えられる。第一に先に述べたように、身分や性差による上下関係が自明のものとされていては、セクハラという概念そのものが成り立たないと考えられるからである。第二にその解決が、上司から当人に対する注意とか、当人と被害者との和解といった陰の部分の解決ではなく、裁判というもっともオープンな形で行われたことである。少なくとも、この使節団の中心的な構成員の中では、セクハラが問題であるという認識と、それを裁判という形で解決しようという共通の認識があったことになる。もちろんこれは全員に共有されていたわけではなく、使節団の理事官・司法大輔佐々木高行は、模擬裁判を行うことに対して、猛反対したと記載されている。


明治政府のその後の方向付けと発展には、帰国後のこの使節団の構成員が大きな力を持った。これは全権大使の岩倉具視、既に名前が挙がっている副使の大久保利通、伊藤博文、残る二人の副使、木戸孝充、山口尚芳というメンバーを見れば明らかであろう。ではこのような当時としてはきわめて開明的な考えを、明治政府が国造りの基礎としたかというと、全く違うといわざるを得ない。明治政府が富国強兵という目標を立てた時に、それに益しないあるいは障害になる可能性のある事柄は当然の事ながら無視をされることになった。その中でセクハラなどという事柄は問題になりようがなかったであろう。女性の側から見ても、参政権の獲得や女子教育の充実のような、より重要な課題が山積している状況では、セクハラなどにかまっている時間やエネルギーはなかったのではないかと考えられる。


では第二次世界大戦後には、その事情は大きく変わったのであろうか。敗戦と米軍による占領のもとで、日本は天皇制から国民主権の政体へと変化したが、ある意味では富国強兵から高度経済成長へと目標が変更されたにすぎなかったともいえる。国と企業とが一致した目標を掲げれば、それに貢献できる人間は優れた人間であり、人間的に多少の問題があっても免責されることになる。現在ではセクハラと考えられるようなことでも、職場の潤滑剤であるとか、デキル男の勲章だ、というような考え方が、なかったとはいえないであろう。それがようやく今になって、セクハラが問題とされるようになった理由ではないだろうか。


現在、日本は未曾有の不景気で、政府も企業も自信と目標を失ってしまっているように見える。そのために、わが国には新しい目標が必要であるという論がいずこでも幅をきかせている。たしかに目標を設定して、それに向かって邁進することで得られるものは大きいであろう。しかし逆にそれによって失うものも大きいと僕は思うのだ。わが国が目標を失ってしまっている現在、それをあわてて探すよりも、もういちど足下に目をやって、目標達成のために失ってはならないものが何であるかを、検証し見直す作業の方がさらに重要ではないだろうか。それによって、130年前に洋上でセクハラを非として裁判を行った日本人が、その後に失ってしまったものも見えてくるのではないかと思うのである。