マタイ受難曲の名前を知っている人は多いと思いますが、実演を聴いたことのある人はかなり少なく、それを楽しんだ人はさらに少数ではないかと想像されます。何しろ「受難曲」ですから襟を正して聴く音楽で、とても楽しむ訳には行きそうもない、というのが一般的な評価ではないでしょうか。僕もずっとそう思ってきましたが、先日の演奏会で、実はその認識はいささか偏っていたのかもしれないと思うようになりました。

今回のマタイ受難曲はオラトリエンコールというアマチュア合唱団の公演でした。アマチュアといってもレベルが高く、何度かドイツ公演旅行も行っている合唱団です。僕の友人のSくんがこの合唱団で永年テノールを歌っており、僕は毎年の公演を楽しみに聴きに行っていましたが、コロナ禍で今年は5年ぶりの公演でした。それもあって大曲のマタイ受難曲を選んだのだと思います。会場である晴海のトリトンスクエア・第一生命ホールに行くと、何人かの友人たちと顔を合わせることができました。さてこれまで僕がマタイ受難曲を聴く時には、日本語訳の歌詞を見ながら音楽を追ってゆくようにしていたのですが、今回はパンフレットのドイツ語の歌詞に日本語の対訳が付き、舞台の上のスクリーンには日本語の歌詞が投影されるという上演方式でした。そこで僕はドイツ語の歌詞を見ながら音楽を追うことにしました。

音楽が始まりました。合唱の部分ではポリフォニーになりますので、そもそも歌詞を追うのはなかなか難しいのですが、ポイントとなる言葉に注意を集中すると何とか言葉のつながりを追うことができます。一方この受難曲で重要な役割を果たすテノールの福音史家とバリトンのイエスが非常に良い歌手で、ドイツ語の発音も明瞭なのが何よりでした。彼らの言葉をはっきりと理解することができましたし、それぞれの言葉にバッハがどのような音型を与えているのかを初めて理解することができました。また歌詞の韻を踏む部分も、なるほどドイツ語ではこのように韻を踏むのかと理解して楽しむことができました。そうするとイエスの受難というドラマの流れがとても素直に頭に入り、音楽の美しさもより一層楽しむことができます。休憩の後の第二部では、もちろん声には出しませんが、コラールの部分で合唱団と一緒に歌うことで、さらに音楽との一体感を味わうことができました。

最後のコラールが終わり、拍手をしながら思ったのは、これは鑑賞する音楽ではなく、参加する音楽なのだなという事でした。バッハの時代には現在のようなコンサートホールはもちろんありませんので、こうした教会音楽は教会で演奏されていました。受難曲は春の受難の週に演奏され、教会に集まった信者たちはこの音楽を聴きながら、キリストの受難を共に体験することができた訳です。その意味ではコンサートホールで畏まって聴く音楽ではなく、イエスの苦悩を共に味わい、ユダの裏切りには怒りを感じ、ペテロの後悔を共に泣きながら悔やむという、聴衆が受難というドラマに参加する音楽ではなかったのではないでしょうか。これまでマタイ受難曲は何度も聞いていますが、今回初めてその一端を理解できたような気がします。

 

もしみなさんが受難曲を聴くチャンスがあれば、あらかじめ新約聖書の福音書に目を通しておき、コラールでは声を出さずに一緒に口ずさむことをお勧めします。受難のドラマがより素直に心に響くのが感じられるのではないかと思います。