医学界に「窓の外に蹄の音が聞こえたら、シマウマと思わず馬と思え」という有名なアフォリズムがあります。これは診断をする時に、可能性として、まずは頻度の高い普通の病気から考えなさいという意味で、経験の少ない若い医師に対するアフォリズムと考えられます。多くの医学書を読んでいても経験の少ない若い医師は、沢山の可能性のある疾患を並列して考え、教科書の記述が印象的だった特殊な疾患に引きずられる傾向が強いため、非常に的を得た言葉と言えるでしょう。「一般外来で発熱の患者を見たら、結核や膠原病ではなくまずは風邪を考えましょう」というのを印象的に述べたもので、とても為になる言葉であるために、これまで生き延びていると考えられます。

しかし発熱患者の95%あるいは99%が風邪であったとしても、その中にごく少数の珍しいしかも重大な疾患が潜んでいる可能性があります。そうするとこのアフォリズムが逆に足を引っ張ってしまい、シマウマであることに気づくのが遅れることはないのでしょうか。それは当然あり得ると思います。経験の長い医師であれば、おそらく毎日嫌になるほど風邪で発熱した患者を見続けており、診察して処方をする事に慣れてしまっており、この患者は違うかもしれないと気づかずに見逃してしまう可能性があります。そうならないためには、研ぎ澄まされた感性が必要なわけですが、それを日頃の診療で保つのは容易なことではありません。もちろんすべての患者さんに対して、血液検査、胸部レントゲン撮影を行えば、珍しい疾患も発見できる可能性はありますが、それは患者さん個人にとってはもちろんの事、社会資本という観点からも望ましいことではありません。それを防ぐ一つの手段としてAIの今後の進歩は可能性を持っているのではないでしょうか。もちろんAIは万能ではなく、検査なしに重大な疾患を疑うことができるかどうかわかりませんが、患者さんの年齢やその他の属性、これまでに罹ったことのある疾患から、風邪ではない疾患の可能性を医師に注意喚起することはできるようになるのではないでしょうか。将来的に日本中あるいは世界中の医療情報が電子的に蓄積される時代が来れば、膨大なデータを取り込んで解析する能力に長けたAIにとっては得意分野ということができるでしょう。

もう一つ大事なことは、こうした診断上のミスを直ちに医療過誤ととらえないことです。現在の医療は医師が必ず正しい診断をすることを前提として動いているように思われますが、もちろんそんなことはありません。人間の判断には必ず何%かの間違いの確率があることを前提として、それをいかに少なくするかを医療界だけではなく、国全体で考えなければなりません。そして明らかな医師個人のミスによるものを除き、治療の遅れなどのために問題が生じた時には、訴訟にだけ任せるのではなく、専門の機関による裁定と患者さんへの補償・賠償を国あるいは公的組織が行うシステムを作るべきではないでしょうか。窓の外を走り去るのが本当にシマウマであった場合、「ほら見ろ、シマウマだったぞ。ビールをいっぱい奢れ」で済みますが、医療の診断においてはそれでは済まないのが難しいところです。おそらく医療以外でも、たまに来るシマウマをいかに見逃さずにおくか、頭を悩ませる例は沢山あるのではないでしょうか。

 

この文章はMRICvol.24039の中村祐輔さんの文章に啓発されて書きました。