「かつて中山競馬場と京成東中山駅とを繋ぐおけら街道と呼ばれる街道がありました」と書くと、えらい立派な道のように思えますが、実際には畑の中の農道です。おけらになるとは、無一文になる事とくに賭け事ですっからかんになる事を意味していて、おけら街道とは、要するに競馬で持ち金を使い果たした男たちが歩く道の事だったのです。武蔵野線が開通して船橋法典駅が競馬場と直結する1978年までは京成東中山駅が中山競馬場の最寄駅でした。競馬開催日には駅前からシャトルバスが途切れなく走っており、大勢の乗降客がありました。競馬場の来場者は往きは必ずバスに乗ります。しかし帰りは本当におけらになった為か、道路の渋滞を嫌う為なのかは分かりませんが、おけら街道を歩く人が多かったのです。

おけら街道はただの農道ですから、幅も狭く舗装もされていませんでした。その道を大勢の男たちが歩くわけですから、道からはみ出す人も多く、畑が荒らされると農民から競馬場へのクレームもずいぶんあったようです。一方でおけら街道の通行人たちのリスクは肥溜めでした。肥溜めは最近はどこへ行ってもほとんど見る事ができませんが、化学肥料が普及する前には、全国どこの農地にも作られていました。写真のようなコンクリート製の水槽型か、中には木製の樽を利用したものもありました。地面と同じレベルに設置されており、ここに人糞を溜めておいて、必要な時に肥料として畑に撒きます。もちろん臭いし寄生虫蔓延の原因にもなりますので、化学肥料に駆逐されて次第に見かけなくなってしまいました。実はこの肥溜めに貯留された人糞が乾燥して固まると、周りの土と見分けが付きにくくなりとても危険です。僕たちは近所の肥溜めの位置を頭に入れて、通学や虫取りの時に踏み込まないように注意していました。

さておけら街道の通行人は東京の人が多く、肥溜めに慣れていなかったためか、はたまた競馬新聞を読みながら歩いていたためか、肥溜めに落ちてしまう人が時々居たのです。さあ汚れるだけではなく匂いが凄まじいので、とてもそのまま電車に乗って帰宅するわけには行きません。その時彼らが駆け込むのが、おけら街道終点の東中山駅前にあった我が家だったのです。当時の我が家には井戸がありましたので、気の毒に思った母や祖母が井戸水をひたすら掛け続け、匂いが消えるまでにしてあげたのです。彼らがそのまま乾くまで待って帰宅したのか、父の古着を与えたのかは覚えていませんが、こうして肥溜めトラップにかかった人を助けたのは一度や二度では無かったように思います。しかし前述のように船橋法典駅が開設されると共に、競馬開催日にも東中山駅の乗降客は激減し、名物だった駅前のもつ焼きの屋台も姿を消してしまいました。当時競馬場に通うのはほとんどがブルーカラーか中小企業の親父さんで、いかにもそうした風体の男たちがおけら街道をぞろぞろと歩く姿が見られなくなったのには一抹の寂しさを感じたのも事実です。

実は僕はスカトロジー文学が好きなのですが、もしかするとこの子ども時代の肥溜めトラップに嵌った人たちの記憶が影響しているのかもしれません。ちなみにスカトロジー文学の傑作としては、金芝河の「糞氏物語」と水木しげるの「糞神島」を挙げておきたいと思います。