僕の父は家に対して並々ならぬ思い入れがありました。それは父が長野県伊那谷の旧家に生まれ、次男であったために家から出てあちこちを彷徨わなければならなかった事と関係していると思います。父の生家は現在も僕の従兄が守っており、築200年の立派な家です。雪の少ない地方ですので、屋根の勾配が少ない独特の外観で、二階はかつては養蚕に使われていました。父は地元の飯田中学を卒業して遠く離れた山口高商に進学しました。そしてそのまま満州国新京の満州中央銀行に就職し、そこで家庭を持ちました。と言っても戦争中のことですから、母の両親と同居でした。戦後に満州で生まれた姉と僕を連れて引揚者として実家に戻りましたが、あくまで居候で、その後は義母つまり僕の祖母の実家がある千葉県蘇我でやはり居候生活を送りました。僕が3歳の時に、義父母と共に一家は千葉県船橋市に引っ越しましたが、これも借家でした。蘇我で一人、船橋で一人、僕の下に妹2人が生まれ、一家8人となりました。小さかった僕はそんなものだと思っていましたが、父はなんとかもっと大きな家に住みたいと切実に思っていたのだと思います。そしてようやく1953年に同じ船橋市内の京成東中山駅前に自分の家を建てる事ができたのです。家の設計は父が自分で行い、夜になると熱心に設計図を描いていたのを思い出します。父は自分の家を持てたのがよほど嬉しかったのでしょう、後にそれが一生で一番嬉しかったと書き残しています。

その後子供たちが家から出てゆくと、父はこの東中山の家を建て替え、さらに同じ京成沿線の志津に土地を買い、ここにも家を建てました。父の思惑としては、東中山の家を売ったお金で子供たちに財産を残したかったようですが、残念ながらバブル崩壊でその夢は潰えました。それでも幾ばくかのお金を残してくれました。父は志津の家で最期まで母と暮らしたかったのだと思うのですが、母が先に亡くなり一人暮らしとなったので、姉や妹の勧めで東中山の家の近くのマンションに転居してここで亡くなりました。たまのゴルフ以外に趣味の無かった父は、新しい家を設計して建てることに大きな情熱を注いでいたように思われます。一方で僕は住む家に執着はなく、戸建ての家に住みたいという希望は全くありませんでした。生まれたのが満州で、その時の家の記憶はもちろんありませんし、一番記憶に残っているのは3歳から7歳まで住んだ狭い借家です。僕は人見知りで、外遊びをする子供ではありませんでしたので、この狭い家が当時の僕のほとんど全世界でした。ですから家の脇の欅の木や、庭で栽培していたトマト、庭の片隅にあった鶏小屋などをよく覚えているのだと思います。

それに比べれば、父が育った伊那の家は敷地も家もその何十倍もありましたので、子供の頃の父にとっては巨大な世界だったのでしょう。古い家ですから、暗闇には妖怪が潜んでいたかもしれません。”家”という言葉には、物理的な建造物だけではなく、そこで暮らした代々の先祖たち、その歴史や思いをも指す意味があります。父にはその大きさや重みが感じられたことでしょう。そして次男であるために、その家を出なければならなかった時に、寂しさと同時にある意味の安堵も感じたかもしれません。それが父が自分の家を建てる事にあれほどまでにこだわっていた理由だったのではないでしょうか。僕が子供の頃に住んだ事のある家は全て跡形もなく消え去っています。それが残念という気持ちもないのですが、その場所を訪れてゲニウス・ロキ(土地の霊)を感じてみるのも良いかもしれまないと思い始めています。終末が近づいている爺さんのノスタルジーだろう、と言われると返す言葉はないのですが。