役に立つ、役に立たないというのはよく使われる言葉ですが、僕はあまり好きではありません。とくに人に対して使われる時には。なぜならその時の価値判断がとても一面的で、しかも話し手の恣意的な判断に則っているからです。ヌッチョ・オルディネ著、栗原俊秀訳の「無用の効用」は、一般的には役に立たないと考えられている事物こそ、本当に世の中にとって重要なのだという事を声高に主張する本です。オルディネは訳者の栗原さんが留学したイタリアの大学のルネサンス文学の教授ですが、彼が書いたこの本はイタリアのみならずヨーロッパ諸国で共感を持って受け入れられ、ベストセラーになっているそうです。

 

この本の構成を見てみましょう。第1部が「文学は〈役立たず〉だが〈役に立つ〉」、第2部が「企業としての大学と、顧客としての学生」、第3部が「所有することは殺すことー人間の尊厳、愛、真理」となっています。第1部は主に古典からのアンソロジーですので、この本がちょっと気取った高踏派的な名言集のようなものかと思ってしまうのですが、第2部に至ると、そうではなくて著者の憤りがこの本を書かせたことがわかるのです。じつはイタリアでも最近、大学の専門学校化が進んで専門領域以外は学ぶ必要が無いという考えが主流となり、そして著者がいうところの「高校化」が進んで、講義内容を簡素化・縮小する傾向が強まっています。そうなると最も影響を受けるのが、著者が専門とする文学をはじめとする人文系の学問です。理系学問と違って社会で役に立たないとして切り捨てられる傾向があるというのは、日本と同じです。日本でも教養科目を縮小しようとする動きが見られますが、ここには専門学部からの圧力もあります。専門分野の学問が高度化すると学ぶのに時間がかかり、教養科目を勉強する時間が”もったいない”というわけです。

 

しかし役に立つとはどういう事でしょうか。企業の役に立つという事なのか、社会の役に立つという事なのか、学生の人生に役に立つという事なのか。古典を学ぶ事は、確かに企業の役に立つとは思われません。しかし大学は企業のためにあるわけではありませんし、古典を学ぶ事が個人の人生にとって極めて大きな意味を持つことは、それを体験した者にとっては自明だと思います。それは”役に立つ”という言葉では包括することのできない体験です。しかしそれを体験する事がなければ、それを理解することもできません。その事で著者は大学の教育が専門学校化する事に大きな危機感を抱いているのだと思います。個展や歴史を知らなければ、現代の社会に対する批判の視点も直接的な脆弱なものとなってしまうでしょう。これは社会にとって不幸な事であり、古典や歴史を学ぶことは、逆説的ですが、社会を批判できるようになることで、社会の役に立つはずです。

 

僕はこの問題に関しては意外と楽観的です。人間が農業の発見によって集団生活を始めて約1万年、文明と呼べるものが生まれてせいぜい4000年ですから、その間に人間そのものはほとんど変わっていません。そうであればその間に淘汰され生き残った古典の価値がいきなり無くなることはあり得ないと思います。教育はもちろんの事l、政治にも企業活動にも哲学が必要なのではないかという事が、多くの人に認識されるようになっていると思います。〈役立たず〉が世の中に必要であることは、決して消えることはないと信じています。