映画はドキュメンタリーであれば現実の画像を用いますが、フィクションであれば架空の映像を使うわけですので、どんな恐ろしい場面も作ることができます。血だろうが、はらわただろうが飛び散り放題です。実際にそれを売り物にした映画もありますが、本当に恐ろしいのはそれとは違った類の恐ろしさを持った映画ではないでしょうか。僕はそれほど熱心な映画ファンではありませんが、有名な映画、話題作はそこそこ見ています。また映画は映画館で見るものと考えているので、テレビで映画を見ることはほとんどありません。その僕がこれまで見た中で恐ろしいと思ったのは次の2作です。

1作は1965年の小林正樹監督「怪談」です。まあ怪談なんだから、そりゃ怖いでしょ、と言われそうですが、僕が恐ろしいと思ったのは、怪談らしい恐ろしさではありませんでした。この映画は4つのエピソードから成り立っており、それは「黒髪」「雪女」「耳なし芳一の話」「茶碗の中」です。この中の最初の3篇は小泉八雲の「怪談」が原作なのですが、最後の茶碗の中は「怪談」ではなく「骨董」が原作です。怪談らしい恐ろしさで言えば、「黒髪」や「耳なし芳一」が遥かに恐ろしいと思います。「茶碗の中」も確かに怪奇譚ですが、「怪談」の諸作とは趣が異なります。ある武士が茶店でお茶を飲もうとすると、茶碗の中に若い武士の姿が見えます。水面に写っているのかと思って振り返ってみますが、誰もいません。気持ちが悪くなった武士はお茶を変えてもらったり、茶碗を変えてもらったりしますが、その武士はまた現れます。思い余った彼はそのお茶を一気に飲み干します。その夜に、なんと彼の所にあの茶碗の中の武士が現れたのです。彼は武士に斬りつけ、手応えがありましたが、消えてしまいます。そして翌日、別の武士3人がやってきて、我が主人が貴殿に斬りつけられて痛手を負いました。この恨みは必ず果たしますというので、彼はこの3人にも斬り掛かりますが、彼らも消えてしまうというのが筋書きです。この話の何が怖かったのか。当時僕の周囲に統合失調症を発症した人が何人か居て、僕は統合失調症に対して過剰なまでの恐怖感を持っていました。自分もいつか発症するのではないかという恐怖感です。その為にこの「茶碗の中」の主人公が見た武士たちが、統合失調症による幻覚に違いないと思えたのです。実際には存在しない人物を見て、それに切り掛かる主人公の姿は、幻覚を映像化しているが故にリアルで恐ろしいものに思えました。また音楽が武満徹による映画音楽の傑作として有名ですが、このエピソードに使われている鼓の音が僕の不安感を掻き立てるのに効果的で、僕は映画が終了した後に、しばらく座席から立ち上がることができませんでした。

2作目はフェデリコ・フェリーニの「甘い生活」です。これこそ恐ろしい場面などなさそうな映画です。僕が恐ろしかったのは、この作品の中の一つのエピソードです。主人公であるゴシップ記者のマルチェロにはスタイナーという友人がいます。彼は知的で哲学や美術にも造詣が深く、趣味は教会でバッハのオルガン曲を弾くことです。美人の奥さんがいて、二人の子供がいます。ところがこの友人が奥さんが留守の間に二人の子供を道連れにピストル自殺をしてしまうのです。これに対して映画ではなんの理由も提示されず、その後マルチェロが退廃的な生活にのめり込むきっかけとなっている重要なエピソードです。当時の僕から見ると、理想的な人物と見えたスタイナーが、自殺それもイタリアでは稀有と考えられる子供を道連れにした自殺をした事に、僕は驚きよりも恐怖を感じてしまったのです。彼の絶望は何故だったのか、理想と見える生活には形骸しか残されていなかったのか。僕はそれ以降、自分が何を目指して生きるべきか、スタイナーの死を思い出しながら考えざるを得ませんでした。こうして思い返してみると、本当に恐ろしいのは心理的な恐怖ではなく、自分の世界観が揺さぶられる事だというのが分かります。最近はそのような恐ろしさを感じることはありません。悟りを得たわけではありませんが、それなりの安定した世界観を得ることができた為なのでしょうか。