僕たちが最初に実際に体験する人の死は,ほとんどが肉親,とくに祖父母であることが多いのではないでしょうか.しかし僕にとって最初の人の死は小学校の友人の死でした.僕は結婚するまで千葉県船橋市に住んでおり,小学校は船橋市立葛飾小学校でした.この小学校は現在は京成西船駅の裏にありますが,僕が通っていたのは移転前の校舎で,現在のJR・メトロ西船橋駅の場所にありました.当時のJRは駅と駅との間隔が広かったので,小学校を移転させて中間に新しい駅を作ったわけです.僕の自宅は京成の駅から少し歩いた場所にあり,家から学校へは京成の線路に向かいそこから踏切を渡らずに線路沿いを歩くと,学校の校門に向かう道路にぶつかるのです.

 

当時は人口急増時代で子どもの数が多く,小学校でも2部授業があったり,学年の途中で近くに新設校が完成して,同級生の一部が転校して行くなど大変な時代でした.一クラスも40名以上だったと思います.入学したときの同級生の一人にO君が居ました.彼は京成の踏切の近くにあるお寺の境内に住んでいましたが,そこに借家があったのだと思います.帰り道が同じだった事もあり,O君は僕の一番の友人になりました.僕は子どもの頃極端な人見知りで,初対面の人とは視線を合わせることができずに,じっとうつむいて黙っているというタイプでした.ですから友人がおらず,いつも家の中で一人で本を読んでいましたので,母親や姉が心配して「外に遊びに行きなさい」としょっちゅう声をかけていました.ところがO君は一緒に居ても干渉することがないので僕には居心地が良かったのでしょう,彼が僕の一番の仲良しになったのです.僕は彼を「まあちゃん」と呼んでいましたが.毎日のようにまあちゃんとお寺の境内で遊ぶようになりました.

 

ところが入学して間もなく,夏休み中だったような気もするのですが,まあちゃんが自宅の近くの踏切で京成電車にはねられ,亡くなってしまったのです.その知らせを聞いた6歳の僕はただ呆然としていました.人が死ぬという事がどういう事かよく分からなかったのだと思います.慌ただしく葬儀の日になり,僕は生まれて初めて弔辞を読むことになりました.小学1年生ですから,自分で文章を書く力はなく,担任の先生が書いた文章をただ読み上げたのだと思います.その中に「まあちゃんの分も一生懸命勉強して」という文章があった事を思い出します.葬儀の後に,まあちゃんのお母さんが僕の所に来て泣きながら「浩ちゃん,ありがとうね」と言った場面は鮮明に覚えています.この弔辞の文章を意識していたわけではありませんが,その後それなりに勉強して医学部に入学して医師になりました.そして数え切れないほどの人の死と遭遇することになります.まあちゃんの次に体験した死は,僕を可愛がってくれた同居していた母方の祖父の死でした.僕はその時8歳だったと思いますが,往診の医師がもう助からないと言ったのでしょう,夜中に起こされて祖父の口に末期の水を含ませました.その時になぜか膝ががくがくして,母に「どうしたの,寒いの?」と尋ねられました.僕も少し成長して人の死の意味が理解できるようになり,また目の前で人が亡くなるという事が,まあちゃんの死とは違った衝撃だったのだと思います.こうして思い出してみると,自分の医師としての人生があの時の友人の死と連続しているように思えてきます.お盆を前にして,急に70年前の友人の死を思い出したことにも何らかの意味があったのかも知れません.