“死体は誰のものか?”とはなかなか過激な問いかけです.法的にも色々な問題がありそうですし,社会学的あるいは民俗学的にも面白い問題です.現金や株式など誰でも欲しがるものは取り合いになる事が多いわけですが,死体は基本的に「欲しい!」という人はおらず,遺族も葬儀・埋葬をきちんと行うためにそれを尊重するだけです.おそらくかつては行き倒れなど埋葬されずに路上に放置される死体も多く,それが看過できないために死者の怨念や死体の忌避の観念が生まれて来たのかも知れません.

 

上田信著「死体は誰のものか」ちくま新書の著者は立教大学教授で中国社会史,環境史を専門とする社会学者です.彼は清の時代に中国各地で行われていた「図頼(とらい)」という死体を用いた強訴に関心を持っていたのですが,それと似たことが現代中国でも行われ,日本でも報道される事にもなった都市騒乱の原因となったことからこの問題に関心を持つようになりました.上田は幼児洗礼を受けたカトリック信者であり,最近立て続けに両親を亡くしてその葬儀に立ちあい,キリスト教における死体そして復活についても考え,それがこの本を書く直接のきっかけとなったという事です.本は5章に分かれており,それぞれの表題を示すとより内容が分かりやすくなると思いますので,以下に挙げておきます.第1章,武器としての死体:中国,第2章,滞留する死体:漢族,第3章,布施される死体:チベット族,第4章,よみがえる死体:ユダヤ教とキリスト教,第5章,浄化される死体:日本,です.第5章の3,法と死体:近現代は一つの独立した章としても良い内容です.

 

この中でも何といってもいちばん面白いのは第1章です.武器としての死体とはどういう意味なのか,どうやって死体を武器として使うのか.中国人の死体に対する考え方には儒教と道教の考え方が混在していてなかなか複雑なのですが,基本的には死体からは「邪気」が発散しているため,適切な葬儀の儀礼によって親族や隣人がその邪気を引き取らない限り,死体の邪気が周囲の人物やものを汚染するという考えがあるのです.これはあのキョンシーにも繋がります.したがって適切な葬礼の儀式が行われていない死体は非常に危険なものであり,武器となり得るということになります.この考えにしたがって,例えば過酷な年貢の取り立てに耐えられずに自殺した小作人の死体を役所に運び,葬儀代をせびる図頼という行為が有効ということになるのです.清代にはそれを生業とする科挙崩れの民間弁護士・訟師が存在したというのですから驚きです.また日本との精神風土の違いとして興味深いのは,中国にも嫁いびりで自殺する女性がいるのですが,それは単なる当てつけや祟りを期待してではありません.死後に実家の親族が自分の死体を用いて,婚家に埋葬金や賠償金として金品を要求することを期待してのことだというのです.実家の親族の了解なしに勝手に埋葬ができない習俗と恐るべき危険な死体とを武器に,死後も戦うという決意表明とも言えるでしょう.

 

チベット族の鳥葬,水葬の記述も印象的です.輪廻転生を信じ,死体を生き物へのお布施と考えるという思想は究極のエコロジーと呼ぶことができます.周囲の生き物は,自分や親戚が転生した姿かも知れないので,できるだけ殺さない,とくに多くの生き物を殺すのは罪だというのです.ですから殺すのであれば,一頭で多くの人を養うことのできるヤクであって,小魚は決して殺しません.チベット族が日本人がしらす丼を食べるのを見たらギョッとすることでしょう.死体を手がかりに死とは何かを考え,そしてそれがそれぞれの民族の精神風土にどのような影響を与えているのかを考える事のできる良書だと思います.