中国の歴史を勉強していると,遊牧民の間ではレビレートがかなり一般的で,重要な意味をもっていた事が分かります.レビレートとは,夫が亡くなった場合,その妻と亡夫の親族(多くの場合は兄弟)と結婚するという習俗です.それ自体は日本でも行われていたのですが,北魏を建国した鮮卑族の部族長(王としておきましょう)の間で行われていたのは,亡き王の后(複数)と皇太子が結婚するという,ある意味ではかなり極端なレビレートでした.

 

これが成立するためにはいくつかの条件が必要だろうと想像できます.1.王が若くして亡くなる可能性がかなり高い.2.女性は若くして結婚する.3.寡婦が生きて行くことが容易ではない.4.結婚の持つ意味が王だけではなく,部族にとって非常に大きい.当時の鮮卑族ではこれらの条件が揃っていたようです.他民族との争いだけではなく,部族間の争いも頻繁で,王が戦いで命を落とす可能性が高かったのです.またそれだけに,他の部族や他の民族の王たちと婚姻関係を結ぶというのは,部族の命運にとって大きな意味を持っていました.統計があるわけではありませんが,女性は若くして結婚していたようですし,定住している農耕民よりも,遊牧民の寡婦が置かれた地位は厳しかったのではないかと考えられます.しかしここまで来て「でも待てよ」と思われた方も多いと思います.そうです.父王の后たちの中には皇太子の母親が含まれているはずです.そのままでは近親結婚,近親相姦を奨励していることになります.そのために,鮮卑族には皇太子を産んだ后は死ななければならないという習俗があったのです.これは近親結婚を防ぐためと考えられ,現在から見ればひどい話ですし,当然のことながら,当時もその為にすったもんだもあったようですが,それだけ結婚による同盟が重要視されていたのだと考えられます.

 

北魏,隋,唐と遊牧民を始祖とする王朝が続き,国が安定すると,このレビレートは公式には行われなくなるのですが,それを非公式に行ったのが唐の三代皇帝の高宗でその相手が則天武后です.武后は第二代皇帝太宗の后だったのですが,武后に執着する高宗は武后を一度出家させてから結婚するという裏技を使ったのです.太宗の死後に武后が自ら皇帝となって,新しい王朝を創始した事はどなたもご存じでしょう.そして第六代の玄宗はなんと息子の后である楊貴妃を召し上げて自分の后としてしまいました.言うなれば逆レビレートです.本人の意図はともかくとして,武后も楊貴妃も中国に大きな混乱をもたらしましたので,この時代にはレビレートが社会の実情とは合わなくなっていたと考えるべきでしょう.

 

僕はレビレートについて読むと,どうしてもかつて評判となった林髞の「人生二回結婚説」を思い出してしまいます.林は慶応大学医学部教授を務めた生理学者で,戦前にはソ連に留学して,あの有名な生理学者パブロフに師事しています.何しろ多才な人で,木々高太郎の筆名で推理小説を書き,林髞として書いた「頭の良くなる本」は1960年出版当時,大ベストセラーになりました.彼の「人生二回結婚説」の主張は,年齢差のある結婚をすれば,高齢の方の連れ合いが亡くなった後に,若かった方の連れ合いは年下の相手を見つけることができ,これを繰り返して行けば,誰でも生涯に二回結婚することができる.しかもカップルの片方は経験豊富なので,性生活もうまく行くというものです.一見もっともですが,現在のように平均寿命が延びて,しかも健康寿命との差が大きいと,若い方の連れ合いは結婚生活最後の時期を介護に専念しなければなりません.現在それを選ぶ人はごく少数でしょう.林髞は旧ソ連に留学していましたので,もしかすると遊牧民の間で行われていたレビレートの話を聞く機会があり,人生二回結婚説を思いついたのかも知れません.現在これが成立するためには,健康寿命と平均寿命の差がほとんど無いなど,難しい条件が必要そうです.