ハリー・クリフの「How to Make an Apple Pie from Scratch: In Search of the Recipe for Our Universe」という本を読みました.翻訳してみると「アップルパイの作り方:宇宙の作り方レシピの探究」となるでしょうか.“from Scratch”とは,アップルパイの作り方で言えば,スーパーで売っているパイ・シートを使わずに粉から自作するという意味です.ここでの意味はというと,アップルパイを作るためには,小麦粉もリンゴもバターも卵も砂糖も必要です.それらはもちろん地球上で生産されていますが,何からできているかといえば,炭素や水素といった元素です.元素はどのように出来たかといえば,ビッグバン以来の宇宙の歴史の中で形成されました.まさにカール・セーガンが言ったように,「アップルパイを作るためには,まず宇宙を作らなければならない」のです.しかし宇宙ができたとしても,元素がすんなりと作られたわけではなく,物質そのものが存在しなかった可能性もあったのです.この本は僕たちが地球上でアップルパイを焼くことができるというのが,いかに奇跡的な出来事の連続で可能になったかを描いています.

 

138億年前のビッグバンから宇宙が始まり,その歴史の中で生まれた僕たちが,その宇宙の成り立ちについて思考していると考えると,その道筋がいかにも自然のように思われがちですが,じつはまったく違います.現在の量子力学や宇宙論の理論から考えると,そもそもなぜ物質が存在するのか,同時に生成された反物質と反応して消えてしまわなかったのか,あるいは確率的にはビッグバン後に宇宙が急激に膨張し過ぎて星や銀河が形成されない,逆に急激に収縮してビッグクランチに陥る可能性がはるかに高いのに,なぜ現在の宇宙の構造が出来上がるような絶妙なエネルギー密度を持っていたのか,など解決できていない問題が数多く存在します.それを解決するための理論(方便?)がマルチバースという考え方で,宇宙はじつは無数に存在しており,僕たちがいるのはその中の一つにしか過ぎない.たまたま一つのラッキーな宇宙の中に物質,元素,星,銀河が形成され,たまたま生物が存在するようになり,たまたま知性を持つようになって,その意味を思考できるようになっているのだから,それを何故かと問うても意味がないという考え方です.しかしこれはある意味で思考停止であり,著者も批判的です.僕もいずれはこの宇宙の存在の必然性もしくは妥当性が,説明可能になるのではないかと考えています.

 

さてこの本は著者がジュネーブのCERNを訪れる場面から始まり,化学フリークの少年であった著者が元素に関心を持つようになったストーリーを導入として,ラボアジェ以降の元素,原子の探究へと進んで行きます.エピソード中心の記述ですので,高度な内容も少しずつ理解・消化しながら進むことができ,ファラデー以来の英国の科学啓蒙の伝統と実力とを知ることができます.とくに英国の量子力学の巨人たち,ラザフォードやディラックの人間性が活き活きと描かれているため,飽きる事がありません.じつはこの20年間,量子力学は停滞期を迎えています.著者も関係したCERNでのヒッグス粒子の発見以降,大きな進展がなく,これまでのように加速器の性能を上げて新しい理論に到達しようとする実験が限界を迎えているように思われるからです.より強力な加速器が稼働したとしても,さらにその先が必要になり,またその実験によってミニ・ブラックホールが形成されれば,イベントホライゾンの存在により,実験結果の情報そのものを得ることができなくなります.著者はそれよりも重力波望遠鏡を用いての宇宙の果ての観測に期待を寄せているようですが,まだどうなるかは分かりません.いずれにしても,高度な内容を平易な英語で解説する著者の力量は素晴らしく,量子力学や宇宙論に関心を持つ方にお薦めします.