中央ユーラシア,東アジアの歴史学・言語学の泰斗であるクリストファー・ベックウィズが書いた「ユーラシア帝國の興亡」は大著ですし,その副題「世界史4000年の震源地」が示すように,簡単に要約できるような本ではありません.しかしこれまでの世界史の常識もしくは誤解を覆そうという明確な意思が感じられる本です.それがよく分かるエピローグ「バルバロイ」を中心に僕の感想を述べてみたいと思います.

 

ユーラシア帝國とは一般的な言葉で言えばほとんどが遊牧民の帝国です.遊牧民の帝国の一般的なイメージは,農業を中心とする文明国に外から侵入して略奪や殺戮を行う武装騎馬集団といった所ではないでしょうか.しかしこれは大きな誤りであるとベックウィズは主張します.そもそも歴史資料のほとんどはいわゆる“文明国”に属するものですから,その主張が歴史の主流となり,遊牧民帝国側の言い分が表に現れることは稀です.ですからとくにこの地域の歴史を理解するためには,この地域の多くの言語に精通し文書の著者が意図した裏の意味までも読み切る言語力が必要となるのです.その意味で著者は最適な人物という事ができるでしょう.

 

バルバロイとはギリシャ由来の言葉で,元は訳の分からない言葉を話す人という意味で,ギリシャ語話者ではないという意味ですが,次第に侮蔑的な意味を持つようになりました.この言葉はローマにももたらされ,さらには現在の西ヨーロッパ人たちも,元々はローマから見れば自分たちがバルバロイであったにもかかわらず,バルバロイという概念を外部の民族に対して持つようになります.その対象となったのが,東方の遊牧民でした.ベックウィズの言葉を借りれば“ローマによる征服は未だに称賛されているが,フンによる征服は非難されている.”のです.その征服が同じように残酷でホロコーストを伴うものであったとしてもです.しかし東アジアにはこのバルバロイに匹敵する概念が無いとベックウィズは主張します.もちろん中国には中華思想があり,漢人は他民族との違いを意識していましたが,ヘレネスとバルバロイのような2分法は持っていなかったというのです.何よりも遊牧民は交易を大事にする平和的な民族であったというのがベックウィズの主張です.彼らは食料を手に入れるためだけではなく,コミタートゥスと呼ばれる独特の私兵軍団を維持するために交易を必要としていました.王や有力者は配下の騎士たちに奢侈品を気前よく与えることで,彼らの忠誠を保ち,時には殉死するまでの関係を維持していました.その環系維持のために交易が何よりも重要であり,交易が妨げられた時に,攻撃を仕掛けたのだと言います.

 

ではあの長大な万里の長城は何のために作られたのか.ここでもベックウィズはこれまでの常識に反する驚くべき説を提唱しています.万里の長城は外からの遊牧民の侵入ではなく,内部からの農民の逃亡を防ぐために作られたというのです.確かに農業を基本とする帝国では,農民を土地に縛り付けておかなければ,帝国を維持することはできません.本当に万里の長城が必要なほど逃亡農民の数が多かったのか,今後の研究を待ちたいと思いますが,非常に面白い考え方です.シルクロードに関しても,それは現代の僕たちが考える連続した高速道路,大陸横断鉄道のようなものではなく,中央ユーラシアの遊牧民の交易によって維持されていたシステムであり,中央ユーラシア帝國が衰えることによって,衰えていったと述べています.とくに東西交易に関心を持つ方にお薦めの本です.