電子辞書を除けば,本格的な電子書籍が発売されて15年あまりが経ちました.僕はかなり新し物好きで,Kindleは第1世代から使っており,かなりのヘビーユーザーと言えます.しかし紙の本とどちらが好きかといわれれば,ためらわずにに紙の本と答えます.Kindleは新刊を読むためというよりも,著作権が切れた著作をタダで読むためと割り切っており,シェイクスピアや森鷗外が読み放題であるのを大いにエンジョイしています.ではなぜ紙の本が良いかというと,これがなかなか答えるのが難しく,自分でも納得のできる答えを出せずにいました.何十年も紙の本を読んできたから慣れに過ぎないという気もするのですが,電子書籍には何か満足できないものがあり,置くスペースに悩みながらも,ついつい紙の本を注文してしまいます.

 

それに対して始めて僕が納得できる答えを提示した人がいます.言語学者の川添愛さんです.川添さんは東京大学出版会の広報誌「UP」に「言語学バーリ・トゥード」という題名を見ただけでもワクワクする連載を担当していたので,僕はずっと注目していました.これは単行本になりましたし,なんと彼女は「聖者のかけら」という中世イタリアを舞台にした,聖遺物をテーマとする歴史ミステリーまで書いています.さて彼女が228日の日本経済新聞夕刊のコラム“プロムナード”に「紙の本への思い」という文章を書いています.ここに僕がなるほどと思った考えが述べられています.少し長くなりますが,引用してみましょう.

 

“思えば,人間の頭脳も紙の本も”言葉の源“であるところが共通している.人間は,自分たちの頭と同じように「言葉がわき出てくる物体」に知性を感じ,それゆえに特別扱いしたくなるのではないだろうか.ただ,同じ「言葉がわき出てくる物体」でも,電子書籍リーダーにはほとんど知性を感じない.そこにはおそらく,「中身を入れ替えられるかどうか」という点が関わっているのだろう.電子書籍リーダーは中身を容易に入れ替えられるがゆえに,どう頑張っても情報の“容れ物”にしか見えない.つまり紙の本の持つ「物理的な実体と言葉とが不可分に結びついている」という側面が,単なる“容れ物”を越え,有機物的な存在感を私たちに感じさせるのかもしれない.“

 

要するに中身が簡単に入れ替えられる電子書籍リーダーは,情報の容れ物にしか過ぎないと感じられるために,紙の本のように知性を持った有機物としての尊敬を受けることができないという指摘です.これはなかなかに面白い指摘で,僕自身も,電子書籍には紙の本のような存在感がないなあとは常に感じていたところです.しかしその原因を,紙の手触りとか活字の美しさとか装丁といった物理的な要因に求めていたのですが,そうではない中身が入れ替え可能かというソフトの部分に注目したのは,さすがに言語学者である川添さん,と感服した次第です.考えてみれば,紙の本の歴史もグーテンベルグ以降と考えれば500年余りしかありません.書籍を単なる情報の容れ物と考えれば,紙の本が生き残る余地はほとんどないようにも思われます.しかしある意味で“知性”や“人格”までが感じられる紙の本が簡単に消えて行く事はないのでしょう.