アーノルド・ファン・デ・ラール著「黒衣の外科医たち」晶文社刊を読みました.黒衣の外科医たちとは誰なのか,意味が分かりにくいと思います.かつての外科医が血液が付着しても目立たない黒いフロックコートを着て手術をしていた事に因むと思われますが,必ずしも本の内容を示しているとは思えません.また写真を見ると分かるように,装丁もおどろおどろしさを前面に出していますが,この本自体はエピソード中心ですが,きわめて真っ当な外科の歴史の本ですので,残酷さやおどろおどろしさを前面に出した出版社の方針にはいささか疑問を感じます.もちろん麻酔がない時代の外科手術が,現代の基準から考えるとかなり恐るべきものであった事は事実です.

 

著者のファン・デ・ラールはオランダの外科医ですので,原著はオランダ語ですが,日本語版は英語訳からの重訳のようです.しかし医学的なチェックはされているようで,僕が気づいたのは軽度の間違いだけでした.この本は28のエピソードからなっています.もっとも古いエピソードは旧約聖書のアブラハムの割礼(包茎の治療)に関するもので,もっとも新しいのは腹腔鏡手術に関するものです.アブラハムが実在の人物かどうか分かりませんので,実在の人物としてもっとも古いのはペルシャ帝国のダレイオス王で,その病気は足関節の脱臼だったようです.現在では整形外科医が治療を行う骨折や脱臼,泌尿器科医が治療を行う膀胱結石も,かつては外科が細分化されておらず,外科医が治療を行っていました.とくに戦争で火器が使用されるようになると四肢とくに脚の負傷が大問題となりました.爆発による脚の負傷は,必ずといって良いほど細菌感染を起こしそれが致命的となりました.ですから当時の外科医の最大の仕事は脚の切断だったのです.この本によれば,切断手術の世界記録は,フランス軍医のドミニク・ジャン・ラレーで,1794年のスペインとのピレネー戦争において,4日間で700件(!)の切断手術を行ったといわれています.計算すると一睡もしないでも8分半ごとに1本の切断手術をした事になります.いくらなんでもあり得ないと思いますが,19世紀のスコットランド出身の外科医ロバート・リストンの早業は有名で,彼は切断手術を始める前に観衆(当時の手術室には見物人がいました)に向かって「諸君,時間を計りたまえ!」と言ってから手術を開始したと言われています.しかしこうした手術によって外科の技術や器具が進歩してきたのも事実なのです.

 

僕が興味を持って読んだのは,これまで詳しく知らなかった1963年にテキサス州ダラスで狙撃されたアメリカのケネディ大統領,1981年にサンピエトロでトルコ人に狙撃された教皇ヨハネ・パウロ2世,1898年にジュネーブでアナーキストのイタリア人に胸を刺されて死亡したオーストリア皇后エリーザベト,通称シシーの傷の状況や治療について詳しく書いてある章でした.ケネディ大統領の狙撃に関して,著者は傷の状況から暗殺犯とされるオズワルドの単独犯行として問題ないと結論づけ,巷に流布する陰謀説を否定しています.またそのオズワルドが2日後に公衆の面前で銃撃され,同じ病院の同じ外科医によって治療されたというのも皮肉な巡り合わせです.最後の章が「デンキウナギに麻酔をかける」というタイトルだったので,なぜデンキウナギ?と思ったのですが,そのまま電気メスの発明と発展の物語へと繋がっていました.かなり本格的な医学知識もコラムとして載っており,興味本位で読む本とは言えませんが,医学の歴史に関心のある方にお薦めします.