新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言は,56日までの予定でしたが,さらに延長されるようです.この1週間,全国でも東京でも感染者数,死者数ともに増加は鈍くなっていますが,ここで気をゆるめると,北海道のように再び増加する可能性があり,やむを得ない事だと思います.ただ実際の被害に較べて,皆さんの恐怖感が必要以上に強いようにも感じられます.現在生きている世代が初めて経験するパンデミックですから当然ですし,テレビでは毎日コロナウイルスに関する話題で持ちきりですので,やむを得ないと思いますが,51日時点での,新型コロナウイルス感染症による国内の死者数は,2018年のインフルエンザによる死者数の8分の1に過ぎません.もちろんヨーロッパやアメリカの状況から,もし自分が罹ったら死ぬかもしれないという恐怖感もあるとは思いますが,社会全体に拡がっているいいようのない不安感・恐怖感は,それだけではなく,見えないものに対する恐怖に根ざしているように思われます.

 

人間が生きて行くのに,もっとも重要な感覚は視覚です.人間は視覚によって食べ物を見つけ,捕食者を発見して逃げたり闘ったりしてきました.ですから視覚への信頼が脳に植え付けられており,少なくとも生存に関しては,他の感覚はその補助をしていると考えるのが良さそうです.しかし他の動物の中には,聴覚,触覚,嗅覚を用いて,あるいは人間が持たない微弱な電気信号に対する感覚で食べ物を見つける種類もいます.かれらは,その主たる感覚に対する信頼感を保持している事でしょう.さて人間の主たる感覚が視覚であるため,人間は見えるものに対しては,どう対処すれば良いかをよく知っています.もちろん目の前にライオンが現れたら恐怖に駆られると思いますが,仲間と一緒に槍を突き出して,後ずさりする,もし襲ってきたら,一斉に闘うといった基本的な方針は共有していた事でしょう.しかしウイルスは目に見えません.空中に漂っているかもしれませんし,ドアノブやエレバーターのボタンに付いているかもしれません.隣にいる人が,呼吸の度に吐きだしているのかもしれないのです.これはなかなかに恐ろしい事です.

 

人間は見えないものを見えるようにする,あるいは見えているように説明する努力を重ねてきました.科学の歴史は,見えないものを見えるようにする,あるいは見えているように説明する努力のつながりであったという事もできそうです.天体からさらに宇宙の彼方へ,人体から組織,細胞,遺伝子へと,見えないものを可視化する事によって,人間は何となく安心する事ができたと言えるのではないでしょうか.かつてと言ってもはるか昔ではなく,19世紀半ばまで,伝染病の原因は死体や腐敗物から立ち上る目に見えない瘴気(Miasma)であると考えられていました.それを打ち破ったのが,パスツール,コッホ,北里柴三郎などの細菌学者たちだったのです.伝染病の原因が,瘴気という見えないものから,細菌という少なくとも顕微鏡で観察可能なものに変わり,一気に伝染病が征圧可能な対象と認識されるようになりました.

 

コロナウイルスも電子顕微鏡で観察する事はできますが,細菌のように簡単に培地で増やして顕微鏡で直接観察できるわけではありません.ですから診断をするにしても,電子顕微鏡でウイルスを直接観察するわけではなく,PCR検査のように,その断片を化学的操作によって増やして,その値で判断するという間接的な方法をとらざるを得ないのです.こうしたウィルスの不可視性が,恐怖感を増幅させているとは考えられないでしょうか.どうも感覚的には瘴気論の時代に戻ってしまったような気がします.やるべき事をやれば,見えないウイルスによる感染も防ぐ事が可能であるというのが,この百数十年間の医学・疫学の経験が教えているのですから,過度に恐怖感におびえる事無く対応したいものです.