多くの日本人は日本には奴隷が居た事はないし、まして日本人が奴隷として売られた時代があった事など考えられないと思っているでしょう。しかし決してそうではありません。架空の物語ではありますが、中世に成立した安寿と厨子王丸の話では、二人は人買いによって山椒大夫に売り渡され、酷使されます。これは明らかに奴隷ですが、日本に奴隷という言葉がなく、奴隷という身分もなかったので、そうとは認識されないだけです。しかしヨーロッパには公式に奴隷という身分が存在し、文書にもその旨が記載されました。大航海時代に日本に来航したポルトガル人は奴隷貿易を行なっており、これは大きな利益をもたらす旨味のある商売でした。彼らは主に東アフリカのモザンビークで調達した現地の黒人をインドや東南アジアで売り捌いていました。しかしそれだけではなく、中国人、ジャワ人、日本人も奴隷として自らが使用し、また世界各地に売り捌いていたのです。

ルシオ・デ・ソウザと岡美穂子の共著「大航海時代の日本人奴隷・増補新版」中公選書は、この時代の日本人奴隷について、世界各地の公文書おもに異端審問所の記録によって明らかにした貴重な本です。元はデ・ソウザが2014年にポルトガル語で出版した「16・17世紀の日本人奴隷貿易とその拡散」という専門書で、その中の一般にも分かりやすいエピソード的な実例の多い章と”イエズス会と奴隷貿易”の章を、妻である岡美穂子が翻訳し、まとめて1冊としたのがこの本です。いずれはポルトガル語の原著が全訳されることを期待したいと思います。そもそもキリスト教世界でなぜ奴隷が公式に認められる存在であったのでしょうか。そこにはキリスト教独特の”正しい戦い”という考えがあり、異教徒を相手とした戦いでの捕虜は奴隷としても良いという事が、教会によって正式に認められていたのです。もちろんモザンビークの黒人や長崎から連れ去られた日本人は戦争捕虜ではありませんが、異教徒を奴隷にする事への心理的障壁が非常に低かったようです。それに対して教会内でも反論はあったのですが、実際にはイエズス会によるお墨付きによって奴隷貿易が行われていたというのが、実情のようです。また奴隷という存在を知らない日本人が、ただの年季奉公と考えて海外に渡り、話が違うと裁判になった例もありました。

この本の中で最も印象的なのは、ポルトガル出身のコンベルソ(ユダヤ教から改宗した新キリスト教徒)であるルイ・ペレスとその日本人奴隷の物語でしょう。ルイ・ペレスはコンベルソと称しながら実際にはユダヤ教徒のままではないかと疑われ、そのために世界各地を転々としなければならず、しかも各地で異端審問所への告発を受けたために、例外的に多数の記録が残っています。ルイ・ペレスは1530年頃にポルトガルの内陸都市ヴィゼウのユダヤ系一家に生まれました。この街にはユダヤ人のコミュニティがあり、彼は商業に従事していたようですが、異端審問所の追求があったため、2人の息子を連れてポルトガルを脱出、ポルトガル植民地のユダヤ人コミュニティを頼ったのでしょう、インドのゴアを経てマカオにたどり着きます。ここも安住の地ではなかったようで、1588年に長崎に到着しました。日本では前年に秀吉によるバテレン追放令が公布されていましたが、まだ長崎には多くの宣教師が滞在し、日本人キリシタンの数も多かったのです。ここでガスパールという日本人がルイ・ペレスに仕えるようになります。ここでも一家は生活習慣から近所のキリシタンたちに、ユダヤ教徒ではないかと疑われ、マニラに逃れます。さらにアカプルコに向かう船の上でルイ・ペレスは亡くなり水葬に付されます。しかし二人の息子は最終的にメキシコ・シティにまでたどり着き、同行していたガスパールともう一人の日本人奴隷はこの街で晴れて自由の身となりました。彼らがその後どうなったかの記録はありません。

日本人はいわゆる召使として働いていた者も多いのですが、傭兵としてもニーズがありました。世が戦国時代で、武士でなくても刀や火縄銃の扱いに慣れている者が多かったからでしょう。フィリッピン総督によるカンボジア遠征、オランダ討伐にもマニラ在住の多数の日本人傭兵が参加していたというのは驚きです。この傭兵には自由民も奴隷も含まれていたと考えられますが、詳細は不明です。また16世紀末から17世紀初めにアジアだけではなく、南米のペルーやアルゼンチンにも日本人がいた事がわかっています。それが本人の意思だったのか、奴隷として連れてこられたのかは分かりませんが、人間の移動は僕たちの想像の範囲をはるかに超えています。僕は明治時代に東アフリカのザンジバルで娼婦として生き、そして亡くなった日本人女性に強い印象を受けましたが、それもこうした歴史の流れの中で捉えるべきエピソードなのだなとつくづく思いました。