埼玉の城-4(鉢形城 其の三) | KOHのブログ

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滝へ行こう カメラを持って

こんにちは (^-^)/


鉢形城 其の三ですにひひ


奥に位置する城山稲荷神社の鳥居をくぐり

二の曲輪方面へと向かいます。



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【二の曲輪】


↓南に向かって緩やかな傾斜がついている

  広大な敷地です。



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↓二の曲輪の西側、三の曲輪との間に

  堀と土塁が残っています。


  柵は最近作られたみたいですね。


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案内板によれば、この堀は幅24m、深さ12mもあったそうです。

スゴイです目


現状さほど大きく感じないのは、安全と遺構保護のため

堀底を高くしたとあります。懸命な処置ですね。


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注目されるのは、堀底に「畝」をもつ障子堀

が発見されたことです。


障子堀といえば後北条氏というほど、至る所で

見られますので、納得です。


しかし気になるのは、発掘調査の結果から、

北条氏の前から障子堀が用いられていた
らしい、という箇所です。


もしかして、後北条氏が術を

引き継いだのかも?


【馬出】


↓ 二の曲輪と三の曲輪を分かつ堀の中に、

   馬出があります。橋が架けられた向こう側

   の一帯です。

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かつての資料には「伝御金蔵曲輪」と

記していたのを見たことがあります。

案内板にも、発掘調査で馬出と確認

された、とあります。


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↓ この馬出は、西・東・南を薬研堀でかため、北側は

   荒川につながる崖ですから、鉄壁の防御です。

   今は良く見えませんが、ちょうど橋の架かっている

   あたりには、門が建っていたようです。

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↓ 二の曲輪方面から見た馬出前の堀です。

   薬研の形が判りますでしょうか。

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ここで、過去に訪問したときの写真と

比べてみますにひひ


1999年6月頃、まだ発掘調査をしていた

時代です。(撮影:KOH)


↓ 2つ上の写真とほぼ同一(やや下側)から

  撮影しております。

  手前と左側の堀跡が見えます。


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↓ 当時の馬出を、ほぼ正面から見た所です。

  小さな看板が2つ見えますが、左が「馬出し」、右が「門跡」

  とあります。

  今となっては、橋がなくならない限り絶対撮れない

  図となりました。


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↓ 現状の馬出西側の堀です。

   草が生えて堀の底が隠れてしまってます。


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↓ こちらは、当時の写真です。

   堀の形も良く判ります。


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↓ 現状の馬出です。今は橋を渡ってすぐ行けますが

  当時は裏側(北側)から登って行きました。

  一見すると何もないです。


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↓ 当時の写真です。

  西側の石積土塁が、シートを覗くようにして

  見ることができます。

  今は完全に埋め戻されております。


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↓ 現在の馬出側から見た二の曲輪方面の堀です。

  堀の中間に畝の盛り上がりが僅かに見えます。

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↓ ほぼ同時期から見た当時の写真です。

   畝の形がより明確に見えますね得意げ

  
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発掘調査はとても時間がかかりますし、「どうしてこんな

作りにしたのだろう」と、現代人をあざ笑うかのように、

掘れば掘るほど謎が深まる場合もあるそうです。

(ここも、そうだったようですね)


しかし、発掘調査で発見された新発見によって、

私の様に何もしていない者でもかなりの恩恵を

受けている訳ですので、城郭研究者、発掘関係者

の方々には、とても感謝している次第ですニコニコ


それにしても、日々城跡を訪れた時、何気なく写真を

撮ってきましたが、時間が経って見比べると貴重な

カットが出てきます。


時代を切り取っておくことは、意味があることかも

しれませんね。


本日はこの辺で、失礼します。

では、またパー