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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

8】飛鳥文化・白鷗文化は、まだ「日本人らしい芸術性」がある文化とはいえない。

 

P4344にかけて「飛鳥時代の文化」が説明されています。

 

「大阪の四天王寺、奈良の法隆寺など、日本独特の様式を持つ多くの寺院が建てられ、彫刻も薬師寺金堂薬師三尊像、法隆寺百済観音像をはじめとする数々の傑作が現存している。絵画も高松塚古墳壁画などは、現代の目で見ても見事なものである。厳密には前期の飛鳥文化と後期の白鳳文化に分かれるが、いずれも日本人らしい芸術性が感じられる。」

 

あらためて四天王寺と法隆寺の建物についてお話しますと。

飛鳥時代の寺院の伽藍は中国に端を発するもので、四天王寺の伽藍は当時の配置をそのまま現在に伝えるものです。建物はもちろん何度も建て替えられています。しかし、是非四天王寺の中心伽藍に訪れてほしいのですが、当時の排水施設の一部もみられます。

法隆寺の伽藍配置は日本独自のもので、最古の木造建築ですがやはり再建されたもので当時のものではありません。当時の伽藍は「若草伽藍」で、四天王寺式の建物であったことがわかっています。

法隆寺は670年に焼失しており、再建時期は不明ですが夢殿・東院伽藍は738年に建てられたものです。現存する西院伽藍は、8世紀初頭までに五重塔・中門が再建・完成され、全体の現在の伽藍になりました。また、大講堂などは935年に焼失、990年に再建されています。

 

さて、法隆寺や中宮寺の仏像ですが。

金堂の釈迦三尊像は北魏様式、中宮寺半跏思惟像は南朝()様式です。

一般的には飛鳥文化は、百済・高句麗、中国南北朝時代の文化の影響を受け、紙・筆・彩色などは高句麗の僧曇徴が伝えた技法であると考えられています。

白鳳文化は、7世紀には新羅を経由し、8世紀には遣唐使によってもたらされた文化で、唐王朝初期の影響を受けています。高松塚古墳の壁画は唐や高句麗の壁画の影響がみてとれます。

 

それでも私は中国・朝鮮の文化の影響を強く受けているということに「日本人らしさ」を感じます。それは、

 

「受容力」

 

ではないでしょうか。他国の文化を受け入れ、やがて日本の風土や慣習に合うようにして、気が付けば自分のものとしている…

排他せず、理解から入る姿勢。否定ではなく尊重を感じます…

 

ところで…

 

白鳳文化を代表する興福寺仏頭は、もともとは山田寺の薬師三尊の本尊なのですが、興福寺にあるのは理由があります。

いわゆる平重衡による「南都焼き討ち」(1180)で興福寺が焼け落ちてしまい、再建に手間取ります。

東金堂も本尊が無いまま7年が過ぎました。

そこで奈良県桜井市の山田寺の薬師三尊を、興福寺の僧兵たちが無理やり運び出し、東金堂の本尊としたのです。

しかし、その後、1356年、1411年と二回の火災で焼け落ち、薬師三尊も頭部だけ残して焼失しました。

やがて仏頭のことは忘れ去られてしまい、その後、別の薬師如来の座像が置かれたのですが…

なんと1937年に東金堂の修復のときに台座下から偶然「発見」されました。

代々大切に守り継がれた文化財もありますが、忘れ去られたり、失われたりしていたものが、教養ある人や、文化に理解がある人によって再発見、再認識されて回復されてきたことも忘れてはいけないところです。

 

歴史を学ぶこと、知ることが、文化のメンテナンス力を高めることになってほしいと思っています。 

7】十七条憲法は「憲法」ではない。

 

歴史学は、史料を批判的に読みとるところから始まります。これは歴史学、なんて大げさに言わなくても、歴史を学ぶ者の姿勢としてのイロハのイです。

批判的、というのは、何もケチをつけるという意味ではありません。果たしてそれが事実かどうか、いったん疑ってかかってみる、ということから始まります。

さて、そのような史料の読み取りの姿勢の一つに、「裏返して」考える、というのがあります。

 

十七条憲法の場合ですと…

 

「和を以て貴しと為し…」とは、つまり、当時はまだ諸豪族の争いがみられた、ということを示している、と考えます。

わざわざ、和を大切にせよ、と命じている以上は、争いが多かったのだ、ということがわかりますよね。

 

「篤く三宝を敬へ」も、仏教がまだ浸透していなかったからこそ、「敬へ」としているわけです。

「当時の人々にとって宗教は、現代とは比べものにならないくらい重要なものだった」(P42)のではなく、少なくとも仏教はまだ重要視されていなかった、と考えます。

 

「詔を承りては必ず謹め」も、「大王」を中心とする中央集権法治国家にはまだ至っておらず、それを目指すがゆえに「詔」を重要視せよ、と説いていると考えるのです。

つまり、まだ天皇を中心とする政治体制は実現できていないことがわかる史料です。

 

後の条文も、「人として正しい行ないをすることの大切さ」を説くことに転用は可能ですが、あくまでも「役人の心得」であって一般大衆に向けた「人々が平和に暮らしていくための道徳規範が記されている」というのは言い過ぎです。

ここで、そんなふうに考えてしまうと、聖徳太子が目指した、画期的な、時代を先取りした「十七条憲法の凄さ」「先進性」が霞んでしまいます。

 

律令国家への過渡期、

分権国家から集権国家になるために、

冠位十二階で創出した「未来の官僚」の服務規程を作った、

 

と理解するべきだと思います。

まさに律令国家を準備する時期。これが当時のものであろうと、8世紀に焼き直しされたものであろうと、律令国家をめざす「何らかの先駆的試みがなされていた」ということが読み取れる史料だと解釈できます。 

 

史料の裏返し…

「男女雇用機会均等法」、なんて早く廃止できる世の中にしないといけない、ということです。

千何百年後に、この法律が発見されると、この時代は、「男女の雇用の機会が均等じゃ無かったんだな」で、読み取られてしまいますから。

6】日本の8人10代の女性の天皇は、父親が全員、天皇というわけではない。

 

P33の記述に「日本には過去八人(十代)の女性の天皇がいたが、全員が男系である。つまり父親が天皇である。」とあります。これは明確な誤りが含まれています。

さすがにこれは訂正される(あるいは訂正済)でしょう。

でも、これ、なんとなくこんな風に書いちゃったの、わかるんです。

別に百田氏を擁護するつもりはないのですが、女性天皇はみんな男系だ!て、言いたくて、子、父、その父、そのまた父…

子から父にのぼって行ったら、どっかで必ず「父親が天皇」になる、て頭の中に思っちゃっているのが文字になったのかな、て。

 

ただ、私がここを明らかにしておきたいのは、別に理由があります。実は、生徒の一人が、

 

「先生、元正天皇のお父さんって、草壁皇子ですよね?」

「え? そうやで。」

「この本、女性の天皇の父親がみんな天皇って書いてあって…」

 

と、なんと『日本国紀』のP33のコラムを見せてくれたんです。よく気づいたな、と、思ったんですが、私、授業でこの時代を説明するときは、皇極天皇から聖武天皇まで、黒板に天皇の系図を書いて、「男系天皇」の意味を必ず紹介しています。

草壁皇子が天皇にならなかったことこそ、この時代をつくり出したといっても過言ではありません。

持統-文武-元明-元正-聖武までの皇位継承の流れは、系図をかけば長屋王の変の背景もよくわかります。

(女性の天皇は、単なる「中継ぎ」ではなく、それなりの意思を持ってふるまっておられた、皇位継承に重要な役割を果たしていた、と思っています。)

 

この「十代」とは推古・皇極・斉明・持統・元明・元正・孝謙・称徳・明正・後桜町天皇のことで、このうち、皇極天皇と斉明天皇、孝謙天皇と称徳天皇が同一人物なので「8人」が天皇の位についていることになります。

同じ天皇が再び天皇となることを「重祚」といいます。

で、この8人の天皇の父親は、全員が天皇ではありません。皇極天皇の父は茅渟王、元正天皇の父は草壁皇子です。

 

そして、茅渟王の父は、押坂彦人大兄皇子。天皇ではありません。

押坂彦人大兄皇子の父は、敏達天皇。

皇極天皇の父(茅渟王)の父(押坂彦人大兄皇子)の「父親が天皇」となるわけです。

 

以下は蛇足です。

 

8人の女性天皇のうち、お二方、明正天皇と後桜町天皇は、江戸時代の天皇です。

明正天皇は第109代の天皇で、母親は、なんと2代将軍徳川秀忠の娘、和子。

称徳天皇以来、859年ぶりの女性の天皇。

父親はもちろん天皇で、後水尾天皇です。

 

さて、諡号の「明正」ですが、一説には「元明天皇」と「元正天皇」の「明」「正」の一字ずつを得た、と言われています。

 

元明天皇は天智天皇の娘。元正天皇は文武天皇の姉。

 

明正天皇は後水尾天皇の娘。そして後光明天皇の姉。

天皇の娘にして、天皇の姉。元明、元正、お二人からお名前一字をいただいておられても、おかしくはありません。

ただ、後水尾天皇は、明正天皇に譲位し、さらに明正天皇の異母弟が成人した後、位を譲らせています(後光明天皇)。

徳川の血を天皇家に入れないぞ、という御意志があったのかもしれません。

 

【番外編】サビエルが見た日本人の書簡は、インドのゴアに送られた手紙

 

実はビジネスジャーナルさんから『日本国紀』の「書評」の依頼を受けて、その中で指摘したことなのですが…

 

 「この国の人々は、これまで私たちが発見した国民の中で最高の人々であり、日本人より優れている人々は、異教徒の中では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意はありません。」(P149)

 

これは、ルイス=フロイスではなく、フランシスコ=ザビエルの書簡に書かれたものです。

と、書評で指摘させてもらったのですが、友人から、

「ちゃんとフランシスコ=ザビエルになっているよ。」

と連絡をもらいました。

「あ、じゃあ新しい版で訂正されているんだ。」

と、ほっとしたのですが…

まてよ。ルイス=フロイスのところをフランシスコ=ザビエルに差し替えただけじゃないやろな… と、いやな予感がしたので、その友人に写メを送ってもらいました。

 

「あー、やっぱりか…」

 

これ、わたしも以前に講演会でやっちゃった失敗で。

 

「彼が本国のイエズス会に書き送った中から…」(P149)

 

これ、実は違うんです。

この手紙、15491115日にインドのゴアのイエズス会員に送った書簡。

ローマ教皇庁あるいはスペインのイエズス会に送った書簡・報告書じゃないんです。

すいません。

「細かいことが気になる、ぼくの悪いクセ」

でも、ミルワードの『サビエルの見た日本人』から引用したのなら気づいてほしかったところです。

【5】思っている以上に、陵墓の研究は進んでいて、調査も認められている。

 

P30「宮内庁によって応神天皇陵とされている誉田御廟山古墳も、実際は誰の墓なのかは不明である」とし、古墳(陵墓)を調査するには宮内庁の許可が必要で、「過去に認められたケースはほとんどない」と説明されています。

しかし、仁賢天皇陵、仲哀天皇陵、継体天皇陵などには、府・市の教育委員会の調査も入っていますし、景行天皇陵に治定されている渋谷向山古墳などは学会の調査も入っていて、研究はおこなわれています。

調査は厳しく制限はされていますが、研究者には学術的な目的による調査も、保全や修理に伴う事前調査・発掘を認めています。

調査結果は公表されますし、出土遺物は貸出もあり。認められなかったケース、というのが具体的にどんなものがあったのか、ちょっと私にはわかりません。

 

応神天皇陵と言われている誉田御廟山古墳は、たしかに未調査ですが、陪塚の研究は進んでいて宮内庁治定の陵墓の中ではかなり研究が進んでいるほうといえます。

ちなみに「899」は陵墓の数ではありません。陵は188墓は555です。

 

さて、言うまでもなく古墳のうち陵墓に指定されているものは、皇室の祖先のお墓。よって文化財保護法の対象外です。

しかし、宮内庁には、ちゃんと陵墓調査官、という方がおられます。

そして陵墓管理委員会というものもあります。このチーム、考古学者だけでなく、土木の専門家もおられて、保全・修理・調査のアドバイスをされています。文化財保護法の指定外でも、ちゃんとこの法に記された手続通りに管理されているので、わたしは十二分に宮内庁で管理と研究ができていると思っています。

 

ところで、皇室の祖先のお墓ですから、ちゃんと現在でもそれ相応の祭祀が行われています。

陵墓に入る前は、なんと「鳥」にならなくてはならないのです。

人としての魂を抜いて鳥になる…

背中にカラスの羽根をつけてカラスのカッコで礼拝…

 

ま、まじか?! 

 

と思っていたら、戦後は礼拝などの儀式だけでカラスには変身しなくてもよくなっているようです。残念というか、ちょっとほっとしたというか…

見てみたかったなぁ、と、不敬ながら思ってしまいました。