『日本国紀』読書ノート(162) | こはにわ歴史堂のブログ

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162】ミュンヘン会談の説明が不正確である。

 

「同じ昭和一三年(一九三八)、ヨーロッパではドイツがオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を要求する事態となっていた。チェコは拒否するが、ヒトラーは戦争をしてでも奪うと宣言する。イギリスとフランスの首相がヒトラーと会談したが(ミュンヘン会談)、英仏両国は、チェコを犠牲にすれば戦争は回避できると考え、また、『これが最後の領土的要求である』というヒトラーの言葉を信じて、彼の要求を全面的に受け入れる。」(P376)

 

ミュンヘン会談は「イギリスとフランスの首相がヒトラーと会談」しただけでなく、イタリアのムッソリーニも参加していて、英・仏・独・伊の四ヵ国会談です。なぜ、イタリアを省略されているのかわかりません。

 

「これが最後の領土的要求である」という説明も不正確です。ヒトラーはミュンヘン会談でこのような発言をしていません。

ミュンヘン会談におけるヒトラーの発言は、「一人のチェコ人も我々は不要」「チェコの領土に興味は無い」というものです。

そもそもヒトラーのスタンスは、ズデーテン地方は「領土問題」ではなく、チェコ在住のドイツ人の「少数民族問題」で、ヒトラーにとって「領土要求」ではないのです。

「チェコの領土に興味はない」という言外に、ズデーテン地方はチェコのものではない、という意味が含まれています。

ミュンヘン会談は、ズデーテン地方の問題を解決するもので、ドイツの今後の対外政策を制限するものではなく、ヒトラーは「最後の領土的要求である」とはもちろん発言しません。「チェコの領土には興味が無い」「チェコを奪うつもりはない」という言葉を誤認されている説明だと思います。

 

チャーチルの第二次世界大戦の「回想録」以来、ミュンヘン会談の妥協が第二次世界大戦を引き起こした、というイメージが広がり、「イギリスとフランスがあの時にドイツと戦っていたら…」とよく言われていますが、ちょっとチャーチルの「盛った話」で文学的修辞です。

イギリスもフランスも、軍事的にも国内世論的にも、あの段階で戦争を開始できる状況にはありませんでした。とくにフランスは、チェコスロヴァキアと相互援助軍事同盟を結んでいて、ドイツとチェコスロヴァキアが戦争を開始した場合、フランスはドイツと開戦することになります。フランス軍部は1938年段階では戦う能力がない、と結論づけて首相ダラディエに報告しています。

これはイギリスも同じで、首相チェンバレンは軍部から現段階では開戦できる準備にない、ということを報告しています。

フランスの外相は「1938年に開戦しても1940年の敗戦が2年早まることになっただけである」と述べています。(『欧州の国際関係1919-1946』大井孝・たちばな出版)

むしろミュンヘン会談は、ヒトラーの「横暴」だけでなく、イギリスの「冷血」も非難されるべきものでした。

ミュンヘン会談前に、すでにイギリスはドイツと交渉を始めていて、すでにチェコスロヴァキア大統領にドイツにズデーテン地方を割譲するように要求していました。さらに軍事援助条約の破棄を通告し、「無条件勧告受け入れ無き場合は、チェコスロヴァキアの運命にイギリスは関心を持たない」とまでチェコスロヴァキア政府に伝えています。こうした「根回し」の上に、ミュンヘン会談が開催されていました。

 

「…この『宥和政策』は、結果的にドイツに時間的、資金的な猶予を与えただけのものとなった。」(P376P378)

 

と説明されていますが、イギリス・フランスにも時間的、資金的な猶予を与えたものとなりました。

 

「狂気の独裁者に対して宥和政策を取るということは、一見、危険を回避したように見えるが、より大きな危険を招くことにもつながるという一種の教訓である。」(P377)

 

という意見には私も深く同意しますが、同時に、チェコスロヴァキアの運命を見るかぎり、「大国と軍事同盟を結んでいても、自国の都合によって、いくらでも反故にされてしまう」という教訓も得なくてはならないと思います。