『日本国紀』読書ノート(155) | こはにわ歴史堂のブログ

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155】二・二六事件の説明に皇道派が出てこないし、統制派の説明も誤っている。

 

例によって細かいことが気になるぼくの悪いクセなのですが…

 

まず、五・一五事件に関しては「ロンドン海軍軍縮条約に不満を持った海軍の急進派青年将校を中心とするクーデターで…」(P360P361)と説明されているのに、二・二六事件に関しては「大日本帝国憲法を否定するテロ行為に反発した昭和天皇は…」(P362)と「テロ」としか説明されず、「クーデター」という表現を用いていません。

 

五・一五事件は、実は「クーデター」ではなく、「テロ」と説明すべきものです。

実は、青年将校たちは「将校」として行動もしておらず、武器なども軍の兵器をいっさい使用せず、拳銃にいたるまですべてわざわざ別に購入して、つまり「私物」を使用して事件を起こしています。

教科書でも、同年に起こった「血盟団事件」と併せて「一連のテロ活動は支配層をおびやかし…」(『詳説日本史B』山川出版・P346)と説明しています。

それに対して二・二六事件は千人を超える軍隊を動かし、首相官邸・警視庁などを襲撃し、国政の中枢部を四日間にわたって占拠した事件で、首都にも戒厳令が出されたものです。なぜ、クーデターといえない事件を「クーデター」と説明され、クーデターとしか言いようのない事件を「テロ行為」と説明されているのかがわかりません。

 

また、「統制派」は説明されているのに、二・二六事件を主導した「皇道派」の名称が出てきません。

そしてその「皇道派」の説明も、

 

「彼らは腐敗した(と彼らが思う)政党や財閥や政府重臣らを取り除き、『天皇親政』という名の軍官僚による独裁政治を目指していた。」(P361P362)

 

と説明されているのですが、誤りです。「統制派」と「皇道派」の説明が混同されていて不正確です。

陸軍省や参謀本部の中枢幕僚将校を中心に、官僚や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制をめざすのが「統制派」です。「軍官僚による独裁政治」はむしろ統制派の説明に近いものです。

よって、「統制派」の説明も「反米・反資本主義的傾向が強いグループ」(P362)となっていて「反米」はともかく「反資本主義的」ではありません。官僚・財閥との提携・協力を考えていました。

 

ただ、最近では、当時の軍部内は「皇道派」と「非皇道派」に分かれていたというべきで、「統制派」側にはまとまったリーダーもけん引するグループもなかった、といわれています。「統制派」は、大きく陸軍大学卒のエリート集団、という括り方がふさわしい、という考え方も強くなってきました。

「皇道派」は、一般には「隊付きの青年将校を中心に、直接行動による既成支配層の打倒、天皇親政の実現をめざす」と説明します。

そして犬養内閣のときに陸軍大臣であった荒木貞夫や教育総監であった真崎甚三郎らを象徴的リーダーとするグループでした。しかし、その後、彼らが軍の要職から離れてたため、「皇道派」は軍内の地位が低下しつつありました。

二・二六事件の裁判では、荒木や真崎が青年将校を志操したのではないかと追及されましたが、真崎は起訴され、軍法会議にかけられましたが、無罪となり予備役に回されました。荒木は二・二六事件勃発当初から明確に反乱軍に対して原隊復帰を積極的に呼びかけていましたが、事件後はやはり皇道派のシンボルでもあったことから予備役に回されています。

実は、このことと「軍部大臣現役武官制の復活」が深く関係しています。

 

「日本共産党の幹部・野坂参三の義兄・次田大三郎法制局長官の主導で軍部大臣現役武官制を復活させて、軍が政治を動かす体制を作り上げたからだ。」(P362)

 

という奇妙な言説を展開されています。次田大三郎が日本共産党の野坂参三の義兄であるという指摘に何の意味があるというのでしょう?

また、次田は確かに二・二六事件で倒れた岡田内閣の後継広田内閣の法制局長ですが、

軍部大臣現役武官制の復活は、次田の主導ではなく、軍部からの要求でした。

というのも、皇道派グループが二・二六事件で失脚し、予備役に回されたため、彼らが軍部大臣などの要職に復活することを阻止するために、「軍部大臣現役武官制」を復活したのです。

「軍が政治を動かす体制を作り上げ」るためではなく、それはあくまでも結果論にすぎませんでした。

(実際、後年、近衛文麿が皇道派を入閣させようとしたことがこれによって阻止されています。)

 

以下は蛇足ながら…

「立憲君主制を謳った大日本帝国憲法」(P362)と説明されているのですが、なぜか1935年の「天皇機関説問題」に言及なく、岡田内閣の「国体明徴声明」にも触れられていません。

二・二六事件以前に、政党政治および政党内閣制は、これらによって理論的支柱を失いました。