『日本国紀』読書ノート(62) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

62】「御三家」は徳川家康が徳川家を存続させるためにつくったものではない。

 

徳川家、ということに関して、これまた、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なんですが…

 

「…そこで家康は系譜を書き換え、自分の祖父は源氏の流れを汲んでいるとして、氏を源と自称し、征夷大将軍の地位を得た。」(P167)

 

源は「氏」ではなく「姓」です。

 

昔、中学受験の学習塾で講師をしていたときに、「歴史上の人物に『の』付きの人と『の』が付かない人がいますが、何が違うのですか?」と言われたことがあります。

 

藤原道長は、ふじわら『の』みちなが

平清盛は、たいら『の』きよもり

源頼朝は、みなもと『の』よりとも

 

でも、

 

北条泰時は、ほうじょうやすとき

足利尊氏は、あしかがたかうじ

織田信長は、おだのぶなが

 

北条氏は、姓は「平」です。平の北条泰時。

足利氏は、姓は「源」です。源の足利尊氏。

織田氏は、姓は「平」です。平の織田信長。

 

豊臣秀吉は、姓を朝廷から新しく作ってもらって、「豊臣」です。

だから厳密には、とよとみ『の』ひでよし、と言うべきかもしれませんね。

 

「姓」だけだと、たくさんありすぎて、どこの源さん? となっちゃうので、「足利」ってところに住んでいるから、源の足利尊氏でーす、と、説明するわけですね。

地名由来やら、その他、その家由来の何かから「氏」ができた、と言われています。

武家政権源平交替論、なんかも、江戸時代に言われましたが、

 

平→源→平(北条)→源(足利)→平(織田)→豊臣→源(徳川)

 

となるわけです。でもまぁこれは話としてはおもしろいですが、遠回りに徳川政権を正当化するためのリクツとして利用されたものです。

 

「政治は老中と呼ばれる者たちが執り行った。老中は現代風にいえば首相にあたり…」(P169)

 

これまた、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なんですが…

 

ものすごい話をしますと、長い日本の歴史からみると、日本ってある意味「象徴天皇制」の歴史が長いように思います。

天武天皇、持統天皇、聖武天皇、孝謙天皇(称徳天皇)は、皇帝的にふるまわれたような気がしますが、以後の他の方々はどうでしょうか。

政治の大権を天皇は太政大臣・左右大臣・摂関・征夷大将軍に委ねてこられました…

その意味では、個人的には大日本帝国は、「日本的」ではなかったような気がしてなりません。欧米の帝政をまねたような…

その意味で、わたしは実は保守・伝統派です。

 

「大政奉還」で征夷大将軍から政権が天皇に返されたわけですから、天皇に代わって政治をしていたのは幕府で将軍です。

現代風に言うなら(おかしいとは思っていますがあえて百田氏に乗っかって言うなら)、征夷大将軍が首相のようなものだった、と考えられます。

老中は形式的には官僚、首相補佐官のようなものですし、実際、複数任用制でした。(譜代は大名であっても、あくまでも徳川家の家臣)

 

さて、「御三家」についてですが…

 

「将軍は世襲だったが、本家の血筋が絶えた時のために、家康の男系男子の子孫からなる御三家(尾張徳川家・水戸徳川家・紀伊徳川家)および、家康の血を引く子孫の受け皿(養子)にする大名をこしらえた。家康の脳裏に、三代で絶えた鎌倉の源氏将軍のことがあったのかどうかはわからないが、徳川家の将来までも見据えた用意周到なシステムだった。」(P169P170)

 

多くの方が誤解されて、学校の先生などもこのように説明されてしまいます。

まず、水戸家が「徳川家」になったのは1636年、家康の死後どころか三代家光のときです。駿河家断絶にともなって「徳川」を名乗ることを許されました。

ですから、家康は「御三家」を知りません。

親藩と呼ばれるものは、尾張徳川・紀伊徳川・駿河徳川は、官位は大納言で、他の親藩よりは「上」であったことはわかります。

甲府徳川家・館林徳川家などもあったのですが、館林から5代綱吉が、甲府から家宣が将軍となってから、水戸を紀伊・尾張に含めて「御三家」というような「感じ」になります。

水戸は中納言ですから、官位的には尾張・紀伊より「下」で、後にできた「御三卿」と同格。ましてや時代劇に出てくる「天下の副将軍」でもなんでもありません。

 

ところが幕末、不思議なことが起こります。

開国後の混乱の中で、諸物価高騰の中、江戸の庶民が開国反対、幕府への不満が高まります。そのとき、幕府にさからった水戸の徳川斉昭公に人気が出て、その子で一橋家の慶喜(江戸の庶民とも交流があった)が将軍になればよいのに、という「慶喜待望」の空気が生まれました。

そんな中から、水戸家は特別な家柄という考え方、世直し水戸黄門の演劇、なども生まれたといいます。

 

家康が「御三家」をつくってはいませんし、後継者を残すためのシステムを意図的に残した、ということがわかる一次史料も存在しません。