学校の授業から… 気がつけば院政 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

「院政」についての授業の前に、かならず

 後三条天皇

について説明します。

後三条天皇の教科書的な説明はとして、

・摂関(藤原氏)を外戚としない
・荘園の整理をおこなった

という二つが大きなテーマになります。

わたしは、この授業のときに、あらためて「藤原氏が台頭してきた理由」を子どもたちに問うことにしています。
生徒たちは、たいていは、ちゃんと3つ答えてくれます。

第一は、「自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた子どもを天皇とする」ということです。
いわゆる「天皇の外戚」となる、ということですよね。
注意しなくてはならないのは、

「自分の娘を天皇と結婚させた」

だけで説明が終わっているのはダメということです。こんな貴族はたくさんいますし、天皇との間に皇子が生まれることなどもあります。
でも、その皇子が天皇になって初めて“完成”なんですよね。

第二は、他氏の排斥。ライバルとなる貴族を退けていった、ということですね。承和の変や応天門の変、菅原道真の左遷や安和の変などなど… でも、古くは、奈良時代から始まっていたことで、寺院勢力の排除も含まれます。
そもそも政教分離の名の下におこなわれた長岡京・平安京の遷都は、同時に他氏の排斥も進行させていきましたから。
もちろん、「他氏」には、同じ藤原氏(主として北家以外の藤原氏)の排除も含まれています。

第三は、寄進による荘園の集中です。これについては以前に説明させてもらいましたから割愛させていただくとして、特権を持って、政治の要職を独占する藤原氏に寄進が集中していった、ということてす。

さて、わたしが子どもたちに、「受験の心得」のようなものを説くときによく言うのは、

「苦手教科で失点して不合格になるのではない。ふだん自分が得意にしている教科で失点してしまって不合格になるのだ」

ということです。
塾講師時代、灘中の受験などでも、よく経験したのですが、「国語が苦手だ」と言うている子が、実際受けてみたら、まぁそれほど国語ができていないというわけではなかった、ところがあれほど得意だと思っていた算数でコケていた… けっきょく算数が原因で不合格… なんて話、けっこうあったんですよ。

人は弱点で滅びません。
長所を失ったときに滅びがおこるのです。

藤原氏の衰退は、藤原氏の台頭の三つの理由の“裏返し”が原因なのです。

後三条天皇は、この三つのうち、二つに深くかかわっているのがわかると思います。
一つは、後三条天皇の母は、藤原氏出身ではない、ということ。もう一つは、荘園の整理(不正な荘園、名前だけの荘園、券契が不明な荘園の停止)をおこなった、ということです。

摂関政治と対抗的に説明されがちな「院政」ですが、そもそもの動機は、藤原氏を退けることが目的で開始されたものではありませんでした。

後三条天皇には、三人の皇子がいました。
一人は、藤原茂子との間に生まれた貞仁親王。
あと二人は、源基子との間に生まれた実仁親王と輔仁親王です。

後三条天皇にしてみれば、自分と同様、藤原氏と関係がない、実仁と輔仁を天皇としたい…
しかし、二人はまだ幼い… しかし貞仁は20才になっていた…

で、後三条天皇は、貞仁親王に言い含めて、

「おまえの次の天皇は、実仁だからな。そしてその次は輔仁だぞ。」

と、「次」だけでなく「次の次」まで指名した上で、貞仁親王に位を譲り(貞仁親王が白河天皇となり)、後三条天皇は後三条上皇となりました。

「おまえはあくまでもワンポイントリリーフだ」

というわけです。

これが1072年のことで、ほんとうなら、ここから後三条上皇の院政が始まるところなのですが、なんと翌年、後三条上皇はあっさりと死んでしまいました。

おもしいろもので「本当なら位につくはずではなかった人が位につく」と、必ずその人は歴史上に名を残す人になっています。

そしてまだまだ異変が続きます。白河天皇の皇太弟、実仁親王が死去してしまったのです。
ほんとうなら、その弟、輔仁親王が皇太弟になるのですが、白河天皇は後三条天皇の遺言を“無視”しました。
まだ、8才の善仁親王に突如位を譲り、

「この子が大きくなるまでわたしが政治を後見する」

と宣言しました。

白河上皇による院政はこのようにして始まったのです。

そして白河上皇は、「結果として」、最も巧みに、政府をごっそり乗っ取ることに成功することになりました。

会社というのは、組織として、上から下まで実にキッチリと機能的に動くようにつくられています。これは律令制度も同様です。

 社長-役員-部長-課長-係長-ヒラ社員

上意下達、しっかりと上の指令は下へゆきとどいて進んでいく…

あるとき、社長が引退して会長になり、若い息子に社長を譲りました、
そうして引退してゆっくりするのかと思いきや、突然、若手の部長や課長や係長を会長室に呼び出して、「最近の会社どう?」「きみたち若手にがんばってほしいねっ」「若い人たちががんばらないとね」などと声をかけてゆく…

会長に声をかけられて悪い気はしません。いろいろ意見を聞いてもらう。
「お~いいこと言うね!」「そうかそうか、そりゃ上司があかんよね」とか、いろいろな話で盛り上がる。

そのうち会長は、「それについては、役員の言うことなんか聞かんでええ、こうやっとけ」とか「ああ、それはべつにやっておいてよいと」と、“非公式”の「指示」や「判断」を出すようになる…

おわかりでしょうか?
もし部長以下、ヒラ社員まで、みな会長の言うことを聞くようになっちゃうと、いくら役員が指示を出そうが、業務命令だっ と、叫ぼうが、会社の仕事は、会長の意にさからわないように進んでいくことになる…

やがて会長室が、経営推進本部みたいになっちゃって、役員たちは、ただのお飾りだけの存在にな
っていく…

めちゃくちゃ乱暴な比喩をしてしまいましたが、あんがいと、これが院政の“実態”に似ていると思うんですよ。
会長室が「院庁」で、会長の指示や命令が「院宣」「院庁下文」…

摂関は存在しているのに、政治は上皇が動かす…

藤原氏は、他氏を排斥して勢力を伸ばした、とは、すでに言いました。
だったら、「排斥された貴族たち」が明確に存在していていることになります。
「反藤原」の空気は、下級貴族たちの中に蓄積されていたのです。
そういう中・下級貴族たちが上皇のまわりに集まって“近臣”となり、政治を動かすようになったわけですね。

藤原氏が、他氏を排斥すればするほど、反藤原氏勢力が成長していったわけで、上皇は、彼らを自分のもとに結集させることに成功しました。

藤原氏は外戚でもなくなり、荘園の寄進も院に集まり始め、そうして自ら退けた勢力が上皇のもとに集まっていく…

ごくごく自然な形で
政権の体制はそのままに
その実体はそっくり上皇が支配する

摂関政治と院政の「二重政権」と言うときがありますが、一方は“空虚”で、一方は“充実”だった、ということです。