4月12日の放送は「毛利元就」でした。
戦国時代の武将というのは、その“祖”というのがあやしい人物がけっこういるのです。
が、毛利元就の場合は、わりと「出自が定か」なのです。
毛利元就の“祖”は、なんと、源頼朝の“参謀”にして政所の初代別当、
大江広元
です。
以前にも申しましたが、基本的に、近世以前の武家というのは子どもをたくさん為し、分割相続させて「家」の存続を図る、という場合がほとんどです。
場合によっては、敵・味方に分かれて一族が争うときもあるのですが、そのときも、「どちらかが負けても、もう一方は存続する」ということになります。
その“配慮”ができないとき、「滅び」が起こるわけです。
大江広元には4人の息子がいました。
おもしろいことに、長男は、なんと後鳥羽上皇に味方をして承久の乱に参加しています。
意外と知られていない“大江家の親子対決”です。
でも、四男は幕府側に立って戦っていて、その意味では“大江家の兄弟対決”でもありました。
ところが、後年、この四男は執権北条氏の政治に不満を持ち、三浦氏とともに反乱を起こして(宝治合戦)大江一族は滅びてしまいます…
と、思いきや!
なんと、この大江広元の四男の四男が、越後国の地頭をしていて、大江家は存続することになりました。
この人物の子孫が、安芸国(広島県)の地頭となり、郡山城の城主となります。
これが「毛利家」となりました。
毛利元就は、3人の子に「教訓」を残した、ということで有名です。
毛利隆元・吉川元春・小早川隆景
架空の話ではありますが、「一本の矢ならば折れる、二本の矢でも折れる、しかし三本の矢ならば折れない。兄弟三人力を合わせれば、家が滅びることはない」という話はあまりにも有名です。
隆元は、父の元就よりも先に死んでしまい、その後を毛利輝元が継ぎ、「父の遺言」を守って、吉川元春、小早川隆景がしっかり補佐して、毛利家を守ることになりました。
しかし、皮肉にも、「三本の矢」の“逆”が起こります。
関ヶ原の戦いをきっかけに、吉川家と小早川家の「足並み」がそろわず、毛利氏は、広大な領地を削減され、周防・長門の2ヶ国だけの大名に縮小されてしまいました。
ところが!
毛利元就には、あと、6本の“隠し矢”があったんです。
元就には、全部で9人の子がいて、四男の元清の子が、秀元。
輝元・元春・隆景は、正妻の子で、残り6人は側室の子… だから最初の3人が有名なだけで、他にも子がいたのです。
毛利本家の毛利輝元には子がおらず、四男元清の子、秀元が毛利本家を継ぐことになりました。
幕末まで続く「長州藩の毛利家」は、長男でも次男でも三男でもなく、「四男の家」ということになります。
一本でも折れる
二本でも折れる
でも、三本では折れない
あの… 三本とも使ってしまったんですけれど… どうしましょ?
うふふ、じゃじゃ~ん! 実は、あと六本、矢を持ってたんだよね~
と、四本目の矢を差し出した、というわけです。
三本見せびらかして、六本は隠しておく…
まことに毛利元就は、“深慮遠謀”の人でした。