元明天皇は天智天皇の娘です。
そして元明天皇を支えたのが、中臣鎌足の息子、藤原不比等…
「大化の改新」の功労者の第二世代が、「改新」を完成させることになりました。
律令政治のしくみは、元明天皇のときにほぼ、確立されます。
708年、武蔵国から銅が献上されたことをきっかけに年号を和銅と改め、和同開珎を鋳造、701年にできた大宝律令を実質的に運用していきます。
そうして、710年、藤原京から平城京へ遷都しました。
「奈良時代」の始まりです。
『古事記』も元明天皇に献じられましたし、『風土記』もこのときに作られ始めました。
元明天皇は、なかなかお優しい方で、全国の国司に対して、農民たちをやさしくいたわるように、という詔をわざわざ発しています。
元明天皇には娘が二人います。
氷高皇女と吉備内親王です。
吉備内親王は、高市皇子(天武天皇の息子)の子、長屋王と結婚し、子どももいました。
また、藤原不比等の息子、藤原房前も有能な人物で、政治に参加するようになっていました。
「娘婿の長屋王もいるし、藤原房前もたよりになるし、もう引退してもいいんじゃないかな。」
と、お考えになります。
でも、まだ孫の首皇子は幼い…
そこで、氷高皇女に天皇の位を譲りました。
これが元正天皇です。
元明上皇と元正天皇、ふたりの女性(母・娘)が政治をおこなうようになりました。
余談ですが、江戸時代に、女性の天皇が位につきます。
この方に送られた名前(諡号)は、明正天皇、なのですが、奈良時代のこの二人の女帝から一字ずついただいたお名前だったんですよ。
元明上皇は、娘婿の長屋王と、藤原房前を呼び出し、娘の元正天皇をよろしく、そうして孫の首皇子をくれぐれもよろしく、と、遺言して亡くなりました。
陵墓の造営などで民を苦しめることがないようにと、葬儀を簡素にするようにとわざわざ詔をしておられます。
最後まで、お優しいお気持ちの方でした。
正史に天皇の容貌が記されるのはめずらしいことなのですが、『続日本紀』には「寛仁」「沈静」「華夏」と並んでいます。「やさしく落ち着いた感じでお美しい」と評され、歴史上の“美人”として有名です。
720年、藤原不比等が亡くなります。
右大臣に任命されたのが、妹の婿、長屋王。そして藤原不比等の長男、武智麻呂が中納言に、次男の房前は参議となりました。
しかし、この元正天皇-長屋王政権で、律令政治の矛盾が表面化してきました。
農民の生活が苦しくなり、逃亡したり戸籍を偽ったりするようになり、口分田が荒廃してきました。
新しい土地を開墾する計画が進められ、723年には、新しく土地を開墾した者に三代(子-孫-曾孫)の私有を認める三世一身の法が出されました。
724年、元正天皇は、皇太子の首皇子に位を譲りました。退位にあたってわざわざ
「首皇子は、わが子同然。」
と、宣言しました。
こうして即位したのが、
聖武天皇
でした。元正天皇は、元正上皇として聖武天皇を補佐することも宣言しました。
「わが子同然」とわざわざ宣言しているところが気になるところです。
というのも、やはり、聖武天皇の“母”が、藤原不比等の娘、宮子であったことと関係があるんだと思います。
当時、天皇の妻、とくに皇后は皇族しかなれませんでした。
臣下の娘の子が天皇となる… これに違和感を持つ貴族や皇族もいたと思うんですよね。
「天皇の子なのだ」ということを強調しなければ、聖武天皇の即位に不満な勢力もあった、ということを示しているような気がします。
実際、このこのとが、後の大きな事件につながるのです。
(次回に続く)