本を買った話 | CAFE KOHANHE

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COFFEE ROAST & WORKS

先日、とあるテレビ番組を見て知った画家がいる。
彼は老齢な現在も精力的に創作活動を行っているようで
作風はピカソと支離滅裂の手前といったところか。
彼は画家でありそして文章も書く。
ただの画家に興味はないが、言葉に絵が見える画家には大変魅力を感じていて
考えてみれば当たり前のことのように思えるのが
そのひと筆をおく、おかないを日々の絶妙な選択としている彼らにものを書かせれば
それもまた言う、言わないの選択として描く行為となんらかわりないはずである。
フレームにおさめる、おさめないの写真にしてもまたしかりで
描けるという能力はそれ以外のものも内包している万能に近い力なのかも知れないなと
暴論気味に感じている。
それはさておき番組を見ながらその最中にすでにアマゾンで彼の本を探していた。
なにかピンときた、と言えば聞こえはいいがたまたまひまだったのかも知れない。
こういうとき街の書店にいくべき(べきは言い過ぎか)だとは思うが
検索の即時性が強みを持つ在宅ショッピングAmazonさまは物欲の熱が冷めやすいこともお見通しで
その場でさっとレジを用意してくれる。抜け目ない。
いまさらアマゾンの魅力を語るために言うつもりはなく、目的の書を膨大な背表紙の中から
あるかないかもわからず探すのは正直つらい。
本の森へ冒険にでかけたいときの書店はかなりの存在価値を持つが彼の木を一本見つけに行くには広すぎる。
雑誌やら人気作家やら毒々しい装丁に振り回されず脇目も振らずその木へたどり着ける気がしない。
逆を言えば、街の書店に必要なのはその森の深度、と言えるのではないかと思う。いかに迷い込ませるか。
整然とした温度感のない書店に魅力を感じないのはこのためか。
話を戻すとアマゾンでその画家の本を探したところいくつか(10かそこら)見つかったが
どれも古書であった。それがとても信じられないくらい高価な本ばかりで彼はいったいどれほどの画家なのか
調べようかと思ったが、それはナンセンスだと思いやめた。
結局、上っ面の興味で買える値段の本を1冊、エッセイという類の本になるのだろうか、買い物カゴへ入れた。
素早さが身上のアマゾンも上っ面の興味が消える前には届けてくれなかった。
いまここに「四百字のデッサン」という1981年に八版が発行された古書がある。
表紙をめくると著者のサインがある。
読みたいような、そうでないような気持ちの中、本というものの存在意義みたいなことを考えている。
たかだか340gという重さ。219ページにわたって綴られていることはどんな意味を持つのか。
そこに差し向ける私の時間の価値はなにか。ほかの何かで代替がきくものなのか。
そこまで考えてさてページを開こう。

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