湖畔人です。

湖畔人の新blogサイト、湖畔人の呟き(5)妄想&Spiritual&宇宙関連のサイトに、今後記事を書き足して行く前提として、スピリチャルな事柄に対する湖畔人としての現時点での基本姿勢をまずお伝えしておこうと思います。

過去から何度もお伝えしてる通り、私には霊感と言うものが無いので、霊が見えたり、霊と話したり、神や天使や精霊、または悪霊等を見たり話したりする事は出来ません。だからと言って霊的な事柄を信じてないかと言うと、そんな事は無くて、この世に生まれてくるのは霊性の獲得、霊的な進化を主目的として生まれてくるんだろうと何故か確認しています。

何故そう思えるかと言えば、まぁ私は田舎育ちなので、住んでいた地域に沢山の神社があり、霊の話や、祟りの話や、魔訶不思議な言い伝えが沢山ある環境で育った事が要因なのかもしれないし、これだけ緻密で精巧な法則性を持った宇宙の構造と運行の様を見るにつけ、そして、これだけの生命の多様性とその創造性、また学びの材料が溢れる自然界を見るにつけ、また、これだけ各自の人間の内に共通して存在する、赤子を見ては守りたいと皆が思うような各自の内に元々備わっているやさしさや善意を見るにつけ、我々人間を含め、この世界が何かすばらしい偉大なる存在によって作られたものに違いない、と思わざるを得ないし、結局のところ、単に『神は存在する、神によりこの世界は作られた』と、自分の直感がそう自分に言ってくるからそう思っているんだ、と言うのが正直な所です。

また、霊性を否定する唯物論に振れると、多くの共産主義国で見られるように、人命への軽視が顕著となり、粛清が多発し、人が残酷になりがちなので、基本、嫌だし、絶望感しかないな、とそうした世界と世界観を単純に嫌悪している、と言うのもあります。

と言う事で、人は霊的な存在であり、何らかの霊的成長を期待されてこの世に生まれて来るんだろう、と言うのが基本スタンスです。

以前、自分の別のブログ、湖畔人の呟き(3)現時点での結論 (ameblo)の、第三話、第3話. "第2話の神と人間の関係性(1)"の考えに至るプロセス①(改1)
https://ameblo.jp/kohanbito-2016a/entry-12967925718.html
で言ったように、

神と霊的世界の実在の可能性の有無は、あるかないかの50%であり、可能性は半々と思っており、もしそうした死後の世界がない場合は、その場合、どうせ死んだ後は無となり何も認識されないのだから、そのケースはあまり気にしなくてよいと思うのですが、ただ、もし本当にそうした霊的世界が存在するとするならば、その場合は、天国とか地獄とか、神が設定した死後の世界に待ち受ける世界観を予め知っておかないと困る事になるよな、と、そう思う訳です。

とは言え、死後の世界の世界観には様々な説があり、中々分かりにくいですよね。

東洋の多くの宗教が取るスタンスは、死後、天国や地獄があり、仮に地獄に行くとしても、刑務所ではないけど、必要な反省期間を経て改心したら、再度生まれ変われる状況になる、なんていう輪廻転生の世界観もあるし、インドなんかでは人でない存在への転生もあり得る、なんて言う話もあるし、一方、砂漠の宗教、ユダヤ教とユダヤ教をベースにしたキリスト教やイスラム教ではあくまで人生は一度きりであり、死後は永遠の地獄か永遠の天国行きか、なんて言うケースもあるし、まぁ色んな世界観があります。
でも輪廻が無く、人生は一度きりの一発勝負の評価のみとなると、ある人は、裕福な家に育ち、葛藤の少ない人生を過ごし、ある人は犯罪だらけの地域に生まれ、犯罪を起こさないと生きていけないような環境で育ち、そうした人生を取り巻く環境に大きな差、ハンディがあるにも関わらず、一回の人生だけで死後の行先が永遠に決まるとなると、なんか相当アンフェアなシステムに思えて来ますよね。やはりどう考えても転生輪廻があった方が、リーズナブルなシステムと言えるかと思うのですが如何でしょうか?ただ、補足すると、イエスが出来てくる素地として存在していたユダヤ教の一派、エッセネ派(死海文書を残した方々と想定される)では、どうも輪廻転生を認めていたようだし、原始キリスト教では、553年の第五コンスタンティノープル公会議で転生が否定されるまでは転生を認めていた、と言う説もある事はあります。どうも生まれ変わりを認めると、永遠に地獄に落ちる恐怖感が減り、教会への信者の依存度が落ちるからそうしたのでは?と言う説もあるようです。真偽の程は分かりませんが、なんかそんな気はしますよね。ある意味、教会の強化と存続を優先する為に信者の心を縛った印象ですね。

いずれにせよ、霊感のない自分には、どの世界観が正しくて、どの世界観が間違っている、何て言うジャッジができる立場にはないですが、過去にも現代にも多くの霊能者の方々はおられたし、今もおられるし、色んな方々が様々な霊的な認識を発表され、誰が誰の生まれ変わりとか、過去の世界はどうだった、とか、今後の世界はどうなる、とか、いろいろな意見を言われています。きっと多分それらの話の多くは、実際に彼らが見聞きした、彼らにとっての真実、本当の話なのでしょう。きっとそうなんだと思います。ただ、中々彼らの話が完全一致する事は少ない印象ですよね。その理由は多分、やはり、各自の経験とか思想とか持っている知識や経験とか、そうしたものがフィルターとなり、結果、そこにバイアスが生まれ、各自の話がズレて行くことになるのだろう、と推察しています。

我々の寝ている時に観る夢ですら、本当はもっと、とりとめがなく、もっと魔訶不思議な展開だったはずなのに、起きた後、夢を思い返し、その見たものを理解しよう試みる際、あれはこうだったはず、と勝手に自分自身が理解しやすいキャスティングと情景に書き直して理解する事が多々ありますが、霊界とのコンタクト後の見聞きした物の解釈も、そうした自身の知り得る知識や世界観への自動翻訳が行われ、その翻訳時にズレが生じるのでは?と推察しています。

ただ、彼ら霊的覚醒が進んでいる方々のアドバイスは、それはそれで、先に行く先輩達の参考意見として重要視し、そこに"普遍性"が有るようであれば、それらは取り入れ、参考にすればよいと思います。ただ、誰が誰の生まれ変わりとか言う情報とか、過去何とかと言う文明があった、とか、実は先祖は他国から流れて来た可能性が有る、とか、将来こうなるよ、的な話は、証拠を得るのが難しい話だし、単にそうかもね、位に聴いておけばよくて、この世で我々一般人がどう生きていくべきか、と言う際のアドバイスとしてはあまり意味がない印象なのです。また各自の人生にそれらの精神指導者達は責任は持てませんしね。各自の人生への責任は各自自身にあるので、あまり外部の指導に依存しすぎるべきではないのです。あくまで参考として様々な意見をありがたく取り入れればよいと思います。

では、そうした様々な霊性に関する意見がある中で、我々、霊能力が無い者たちは、どう言う考えを持って生きてゆくべきなのか?、ですが、霊能力がつくのを待っていては、それが何時達成できるか分からないし、永遠にそうした事は起きないかもしれないし、仮に霊能力がついたとしても、前述のとおりどの道バイアスを避ける事は至難なので、正確性はどこまで行っても分かりかねるのです。

なので、そこは、やはり、"その考えには普遍性はあるのか?"と問う必要があり、それら問いを通過できた考え方のみを普遍性のある考え方として採用すれば良いのでは?と思うのです。

では、ここで言う"普遍性"とは何か?ですが、それは、『性別、時代、国籍や人種にかかわらず、誰にとっても公平で公正に適応されるルールや考え方』です。

そう思う根底には、これは根拠はないですが、自分が信じている神とは、『根本なる、根源なる神は、リーズナブルな考え方をされるご存在で、なるほどな、そうだよな、と言う納得できる考え方を採用される方なはずだ』と、そう信じ切っているからです。

この考えが根底にあるので、『神は全ての人間を、神の子、分け身魂として愛し、我々を公平、公正に愛し、評価してくれる存在で、何度でも成長のチャンス(転生輪廻)をくれる存在なはず』と考えるので、どこどこの民族のみ祝福され、他は滅びるべき、とか言う考え方はあり得ない、と思う訳です。

何故なら、そもそも、この世界が生まれた理由と動機を、この点に限ってはウォルシュの神の説明にフルで同意なのですが、そもそも完ぺきでたった一つの存在だった神が、自己の素晴らしさを確認、実感する為に、自分自身を分光して、自分だけど自分ではない外側の存在(人間)を作る必要があり、それら人間に一旦神の一部である事を忘れてもらい、その人間に、神の偉大さを実感し、称えてもらい、また、この世の人生を生きて行く過程の中で、人間が実は神の子、神の一部であるという衝撃の事実を感動と共に再発見してもらい、以降、神の一部としての自覚と共に、神と同じく愛の存在として、愛を持って、神から授かった創造力を駆使して、自身の個性に見合ったより良き現実をこの世界で創造、実現して頂き、その中で神の栄光を表現して頂きたい、と、そう神は願ってこの世をお作りになられた、と、そう仮定するものです。但し、相対の世界でないと神の素晴らしさも愛の素晴らしさも、神の栄光も分かり得ないので、神はそれらと反対の存在も同時に作られた、だからいろいろな不幸と見える状況もあちこちで起こり得るが、でもその相対の世界の中で、各自、神から授かった愛と創造の力、思考と行動力を駆使して、より良き世界を想像(創造)する事に集中し、神の栄光を表現して欲しい、と、そう神はそう願っておられる、と、それがこの世界が存在する理由、これが世界の真相、と言うような世界観に、深く同意をしている訳です。

その点からすると、全ての人間は神の分け身魂、神の一部、神の子な訳で、であれば、全ての人間は、自身も、回りの人達も、本来神の子、神の一部として見られ扱われるべきだし、その視点こそが、価値基準の根本にあるべき、と考えるのです。

自身も神の子なら、
自分を卑下なんてすべきでないし、
自身の体もいたわるべきだし、
自殺なんて論外だし、
思ったことは全て神の如く実現するので、余計な心配は心から排除すべきだし、常に良き現実の実現のみ選択的にイメージすべきだし、
そこに集中して、自身の時間を最大限有効活用すべきだし、

一方、周りの全ての人々に対してもまた、皆、彼らも神の一部なので、
他人を卑下したり、騙したり、ケガさせたり、殺したり、悲しませたりすべきでは当然ないし、
基本、他人を尊敬し、褒め合い助け合い、協力し、仲良くして行くべきなのです。
そして神の子、神の一部としての自覚がない存在が、
自身を亡き者にせんと攻めて来たり、周りの人々に危害を与えんとする存在が迫って来たら、
その時は、正当防衛なので、戦う必要もあるが、心根においては、相手の内の神性を見ながら対処すべきと考えます。

なので、人に原罪がある、なんて言うキリスト教的視点は、受け入れるべきではないし、また、一部の中東の民だけ神の民とする宗教も、また、日本を罪の国と定義するキリスト教を改変した東アジアの半島の宗教なども論外かと思います。

よって、
『普遍性』がある、この世とあの世を含む神の作りしこの世界の目的と意義を再度整理をするとすると、
①人は神の分け身魂、一部であり、
②人は転生輪廻をする霊的な存在であり、
③我々は、自他共に神の分け身魂として大切にし合うべきであり、それに反する行き過ぎた行為は相手に謝るべきで、
④我々は、神の一部として、この世を、神の子の住まう場としてよりふさわしい、より良き世界に再創造すべく、神の代理人としての活躍が期待されており、
➄また、各人、たった一つの個性を通して、自分らしく神の栄光をこの世で発現するその創造力を磨き、伸ばして行く事に注力すべきで、特に思ったことは全て神の如く実現してしまうので、余計な心配は心から排除し、良き現実のみ選択的にイメージできるよう心を制御出来るように鍛錬すべきで、その点の実力向上を目指して今世の時間を有効活用すべきである。

となるかと思います。

自分的には、これらが現時点の普遍的なこの世とあの世を含む神の作りしこの世界の目的と意義、我々のすべき事かな、と思っています。

自身の内に仏性、神性を見るという考えは、大方の宗教に共通するし、特にアジアの宗教に共通してみられるし、
神道の鏡をご神体にする姿勢にも、鏡に映る自身の内なる神と対峙せよ、と言う事だと理解するので、
基本、日本の伝統にも合う考え方と言えるかな、と思っています。

また、我々は元々、神の光が分光してできた神の一部、霊的な存在と言いましたが、
実は、霊界こそが、我々の元々の居場所、ホームのようですが、一方で、霊界は波長導通の法則でなりたっているので、
似た様な波長(周波数=ラジオのチャンネルが合って音が聞こえるのと一緒)を持つ存在に囲まれた生活となり、居心地は良いのですが、
進歩が期待出来ないので、様々な波長と考えをもつ人々が集まるこの世界で揉まれることで、様々な考えに触れ、
自分の幅を広げられるし、学びを深められる、結果、自身の器が広がり、霊的進化が期待できる、としてこの世に生まれてきているようです。
それがこの世界の存在意義の一つのようですね。

カルマの解消も目的の一つでしょうが、ここも中々分かり得ないので、取り合えずは、上記5点を気にしていれば良いのでは?と思っています。
カルマの解消については、宇宙の霊人達のアドバイスとして、我々はカルマを人間の善悪の判断による懲罰的なものと捉えがちだが、
実際には、単に自分が発した思考や行為が自分自身に戻って来るという極めて物理現象的なものであり、また、自分の本性(個性ある神性)に反した行為をした場合に、その修正として起きて来る警告としての反作用の事象、現れの事だと思え、と言うようなアドバイスが最近出ているようですが、いずれにせよ上記③と➄を心得ていれば良いのでは?と思っています。

以上が、現時点の自分の霊的な事柄に対するスタンスでした。

皆様のご参考になれば幸いです。

また変化があれば更新します。

では。

湖畔人