勇者と段々崩壊していく世界
マリネと別れたあと、家に帰って覆水盆に返らずの意味を調べた。マリネは今、命を狙われていて、逃げている。もう二度と会えない。けど、会いたい。会ったとしても、もう以前のようにマリネは笑ってくれないだろう。地にこぼれた水はもう二度と同じ場所に、同じ量で戻らない。だけどもう一度会って、ちゃんと謝って、マリネと話をしたい。また罵倒され続けてもいい。もう一度だけでいい。会いたい。マリネの顔を見たい。出来ればマリネに好きだと言って欲しい…。
マリネは今もどこかで誰かから逃げている。大丈夫だろうか。捕まってはいないだろうか、拷問されてはいないだろうか。やられてはいないだろうか。お金を持っていないのに、ご飯は食べているのだろうか。どこで寝ているのだろう。私が誰かに殺されるというのならマリネに殺されたい。マリネのためになって死にたい。
じっとしていられなくなって、夜中に家をでた。アパートの前にマリネがいるんじゃないか。駅前にいるんじゃないか。よく行った喫茶店にいるんじゃないか。ラブホ通りで私が出てこないか見張っているんじゃないか。どこかで私を探しているんじゃないか。
どこを探しても、マリネの姿を見ることはなかった。途方に暮れて、足を止めたとき、マリネが知り合いの盗賊に身分を都合してもらう、と言っていたことを思い出した。きっともう盗賊のところに行ったのだろう。マリネはちゃんと考えて動く人だから、むざむざ危険を冒しはしない。この町にマリネはいない。なら家に帰ろうと思った。家に向かって歩きはじめると、無意味に歩き続けて疲れたから家に帰りたくなっただけだろう?、と、私の中の誰かがいった。私は悔しくなって、また無意味にマリネを探した。朝まで駅でマリネを待ってみた。待つ、のはとてもつらかった。マリネがいないかずっとあたりをきょろきょろと見渡して、やっぱり家の前にいるんじゃないかと、何度も家の前と駅を往復した。一度の往復に数分しかかからなくて、でもその数分すらマリネとどこかですれ違っていないかと不安で、マリネがこの町にいないとわかっていても、絶対という証拠はないから、いるかもしれないと信じて、マリネを探し続けた。結局始発が出てしばらくしても、マリネの姿は見つからなかった。もう家に帰って、仕事に行かなくてはいけない…。
家族には何も言わなかった。言いたくなかったし、何をどう言えばいいかわからなかった。家に帰るとママが、毎日朝帰りで大変だね、と、皮肉をきかして言ってきた。普段なら言いかえすけど、些細なことでマリネと喧嘩した
日だって元気に何か言いかえしていたけど、私は何も返事をせず、無言で湯を浴びにいった。口をつぐんだ私をいぶかしむママの顔が、私をママが思っている以上に苦しめた。
準備をして、朝ご飯も食べた。味がしなかった。仕事になんか行きたくはない。だけど、行かなくてはならない。
駅の改札口まできた。一昨日までここから数駅先の駅で同期の彼と合流して、一緒に仕事場まで楽しくむかった。一緒に楽しく仕事をして、一緒に楽しく遊んで、一緒に飲んで、一緒にホテルにいった。
その間マリネはずっと私をどこかで、待って、いたに違いない。毎日毎日、私を待っていたに違いない。今日、私が待っていたように、ずっと苦しんで、苦しんで、待たせる私を、来ない私を憎んで、私がその時間に楽しんでいると知っていながら、それでも待ち続けていたに違いない。毎日、毎日。マリネに抱かれている時に私が顔をマフラーで覆うようになった理由さえ、マリネはわかっていたのだろうか。つらいなあ。それってつらいなあ。
気がつくと私は仕事場とは反対方面行きの馬カゴに乗っていた。マリネが、自分の部屋に戻ってくることは、あまり考えられるマリネの行動ではない。最後に会ったあの日には、すでに多くの荷物をリュックにつめていたし、逃亡中にむざと部屋に戻るようなバカなリスクを慎重なマリネはとらない。でも私はバカだから、マリネの部屋の前で待つことしか、マリネに会えるチャンス、がわからない。その結果私の身になにが起こるか、そんなことはバカだから考えない。私はバカだから、バカで死ぬことになってもかまわない。頭のどこかでマリネの、いい加減にしろ、という最後の声が聴こえたけれど、じっとしていられない。
最寄駅に着き、それとなくきょろきょろと辺りを見渡す。通勤客でいっぱいの、いつもの駅だ。マリネの部屋までは駅から20分ほど歩かなくてはならない。歩いているときも、できるだけ自然に辺りを見渡す。でも、マリネや、警官や、怪しい人物は見つからなかった。
マリネのアパートの前にたどり着く。私の予想に反して、アパートには警官もいなければ、立入禁止、の措置もとられてはいなかった。そこには住宅街の片隅にある寂れたアパートが、日常の中に息づいているだけだった。
マリネが死体を見つけたのは一昨日のこと。ひょっとしたら、まだ死体は陽の目を見ていないのかもしれない。積もった雪が、まだマリネを守っているのかもしれない。そう思って、ベランダが見える方に歩いた。マリネの部屋は一階だけど、さすがに通りからマリネの部屋のベランダの中まで見通すことはできなかった。アパートを囲む柵の上に立てば見えるだろうか、と考えながら、私はまた辺りを、今度は何か都合のいい高さを求めて、きょろきょろとした。きょろきょろと辺りをうかがってみるもので、ちょうどマリネのベランダが覗けそうな位置に、背の高いマンションの非常階段を見つけることができた。
腰ぐらいの高さの柵を乗り越えることで、容易に非常階段を登り始めることができた。
なるべく足音がたたないように、私は階段を登っていく。二階を過ぎたあたりで、私の顔の横を白いものが舞い落ちていった。雪に降られるのはいやだなと思い、空を見たが、どうやら雪ではない。手すりから少し身を乗り出して上を見ると、三階と四階の間の踊り場で誰かが手すりに肘を預けてタバコを吸っているのが見えた。さっきの白いのは灰だったのかと納得した。と、同時に、その人が私の方をちらりと覗きこんだ。フードをかぶったかわいい女の子だった。女の子の右手に何かが日の光を反射してキラリと光った。すると、女の子は姿を消した。
今日はじめてみる怪しい人物だった。だけど、さすがにあの女の子を警戒する必要もないだろうと、私は階段を登った。
女の子のいた踊り場には数本タバコの吸殻が捨てられていた。私の鼻にタバコの残り香がついた。よく知る匂いだった。吸殻を拾ってよく見ると、マリネと同じ種類のタバコだった。私ははっとして、女の子の行方を上下左右きょろきょろと探ったけれど、女の子は見つからなかった。
ついでに踊り場からマリネの部屋を見ると、ベランダの中まで見通すことができた。私はそれを確かめると、上の階に向かい、マリネの部屋をみた。上の階からだと、ベランダの中まで見えないこともないが、手前側に死角が生じていた。さっきの場所がベストポジションなのだ。あの女の子は、マリネの部屋を、ベランダを、見ていたに違いない。手の中で光ったものは、小さな遠眼鏡だ。
殺される?
私は怖くなった。膝が寒さだけのわけじゃなく、がたがたと震えた。
殺されてもいいって決めたのに…。
少し経つと私は恐怖よりも情けなさに打ち震えた。
私が勝手に震えているだけで、何も起こらないので、段々と頭が回りはじめた。そもそも本当に私の推測は合っているのか。女の子はただたまたまタバコをそこで吸っていただけじゃないのか。合っていたとして、なぜ女の子は姿を消したのか。私がマリネと恋人だったとマリネを追っている者は知らない?、あの女の子はひょっとしたら、マリネ側の人間?、マリネは女と一緒にいる?、マリネの新しい恋人?、やっぱりもう私は…。
ばたん、とどこかのドアが閉まる音がして、私は、そんなことを考えている場合ではないことを思い出した。こんなときにマリネだったらどうするか、やっぱりこの場から逃げることを考えるだろう。逃げる前に、何かひとつでも情報を得ようとするだろう。私は急いでベストポジションまで移動し、ベランダを覗き込むように見た。死体らしきものはなかった。何もなかった。他の部屋のベランダには雪が満遍なく積もっているのに、マリネの部屋のベランダは、所々雪がはげ、床さえ見える。バカな私でも、誰かが死体を運びだしたことはわかった。
マリネは今もどこかで誰かから逃げている。大丈夫だろうか。捕まってはいないだろうか、拷問されてはいないだろうか。やられてはいないだろうか。お金を持っていないのに、ご飯は食べているのだろうか。どこで寝ているのだろう。私が誰かに殺されるというのならマリネに殺されたい。マリネのためになって死にたい。
じっとしていられなくなって、夜中に家をでた。アパートの前にマリネがいるんじゃないか。駅前にいるんじゃないか。よく行った喫茶店にいるんじゃないか。ラブホ通りで私が出てこないか見張っているんじゃないか。どこかで私を探しているんじゃないか。
どこを探しても、マリネの姿を見ることはなかった。途方に暮れて、足を止めたとき、マリネが知り合いの盗賊に身分を都合してもらう、と言っていたことを思い出した。きっともう盗賊のところに行ったのだろう。マリネはちゃんと考えて動く人だから、むざむざ危険を冒しはしない。この町にマリネはいない。なら家に帰ろうと思った。家に向かって歩きはじめると、無意味に歩き続けて疲れたから家に帰りたくなっただけだろう?、と、私の中の誰かがいった。私は悔しくなって、また無意味にマリネを探した。朝まで駅でマリネを待ってみた。待つ、のはとてもつらかった。マリネがいないかずっとあたりをきょろきょろと見渡して、やっぱり家の前にいるんじゃないかと、何度も家の前と駅を往復した。一度の往復に数分しかかからなくて、でもその数分すらマリネとどこかですれ違っていないかと不安で、マリネがこの町にいないとわかっていても、絶対という証拠はないから、いるかもしれないと信じて、マリネを探し続けた。結局始発が出てしばらくしても、マリネの姿は見つからなかった。もう家に帰って、仕事に行かなくてはいけない…。
家族には何も言わなかった。言いたくなかったし、何をどう言えばいいかわからなかった。家に帰るとママが、毎日朝帰りで大変だね、と、皮肉をきかして言ってきた。普段なら言いかえすけど、些細なことでマリネと喧嘩した
日だって元気に何か言いかえしていたけど、私は何も返事をせず、無言で湯を浴びにいった。口をつぐんだ私をいぶかしむママの顔が、私をママが思っている以上に苦しめた。
準備をして、朝ご飯も食べた。味がしなかった。仕事になんか行きたくはない。だけど、行かなくてはならない。
駅の改札口まできた。一昨日までここから数駅先の駅で同期の彼と合流して、一緒に仕事場まで楽しくむかった。一緒に楽しく仕事をして、一緒に楽しく遊んで、一緒に飲んで、一緒にホテルにいった。
その間マリネはずっと私をどこかで、待って、いたに違いない。毎日毎日、私を待っていたに違いない。今日、私が待っていたように、ずっと苦しんで、苦しんで、待たせる私を、来ない私を憎んで、私がその時間に楽しんでいると知っていながら、それでも待ち続けていたに違いない。毎日、毎日。マリネに抱かれている時に私が顔をマフラーで覆うようになった理由さえ、マリネはわかっていたのだろうか。つらいなあ。それってつらいなあ。
気がつくと私は仕事場とは反対方面行きの馬カゴに乗っていた。マリネが、自分の部屋に戻ってくることは、あまり考えられるマリネの行動ではない。最後に会ったあの日には、すでに多くの荷物をリュックにつめていたし、逃亡中にむざと部屋に戻るようなバカなリスクを慎重なマリネはとらない。でも私はバカだから、マリネの部屋の前で待つことしか、マリネに会えるチャンス、がわからない。その結果私の身になにが起こるか、そんなことはバカだから考えない。私はバカだから、バカで死ぬことになってもかまわない。頭のどこかでマリネの、いい加減にしろ、という最後の声が聴こえたけれど、じっとしていられない。
最寄駅に着き、それとなくきょろきょろと辺りを見渡す。通勤客でいっぱいの、いつもの駅だ。マリネの部屋までは駅から20分ほど歩かなくてはならない。歩いているときも、できるだけ自然に辺りを見渡す。でも、マリネや、警官や、怪しい人物は見つからなかった。
マリネのアパートの前にたどり着く。私の予想に反して、アパートには警官もいなければ、立入禁止、の措置もとられてはいなかった。そこには住宅街の片隅にある寂れたアパートが、日常の中に息づいているだけだった。
マリネが死体を見つけたのは一昨日のこと。ひょっとしたら、まだ死体は陽の目を見ていないのかもしれない。積もった雪が、まだマリネを守っているのかもしれない。そう思って、ベランダが見える方に歩いた。マリネの部屋は一階だけど、さすがに通りからマリネの部屋のベランダの中まで見通すことはできなかった。アパートを囲む柵の上に立てば見えるだろうか、と考えながら、私はまた辺りを、今度は何か都合のいい高さを求めて、きょろきょろとした。きょろきょろと辺りをうかがってみるもので、ちょうどマリネのベランダが覗けそうな位置に、背の高いマンションの非常階段を見つけることができた。
腰ぐらいの高さの柵を乗り越えることで、容易に非常階段を登り始めることができた。
なるべく足音がたたないように、私は階段を登っていく。二階を過ぎたあたりで、私の顔の横を白いものが舞い落ちていった。雪に降られるのはいやだなと思い、空を見たが、どうやら雪ではない。手すりから少し身を乗り出して上を見ると、三階と四階の間の踊り場で誰かが手すりに肘を預けてタバコを吸っているのが見えた。さっきの白いのは灰だったのかと納得した。と、同時に、その人が私の方をちらりと覗きこんだ。フードをかぶったかわいい女の子だった。女の子の右手に何かが日の光を反射してキラリと光った。すると、女の子は姿を消した。
今日はじめてみる怪しい人物だった。だけど、さすがにあの女の子を警戒する必要もないだろうと、私は階段を登った。
女の子のいた踊り場には数本タバコの吸殻が捨てられていた。私の鼻にタバコの残り香がついた。よく知る匂いだった。吸殻を拾ってよく見ると、マリネと同じ種類のタバコだった。私ははっとして、女の子の行方を上下左右きょろきょろと探ったけれど、女の子は見つからなかった。
ついでに踊り場からマリネの部屋を見ると、ベランダの中まで見通すことができた。私はそれを確かめると、上の階に向かい、マリネの部屋をみた。上の階からだと、ベランダの中まで見えないこともないが、手前側に死角が生じていた。さっきの場所がベストポジションなのだ。あの女の子は、マリネの部屋を、ベランダを、見ていたに違いない。手の中で光ったものは、小さな遠眼鏡だ。
殺される?
私は怖くなった。膝が寒さだけのわけじゃなく、がたがたと震えた。
殺されてもいいって決めたのに…。
少し経つと私は恐怖よりも情けなさに打ち震えた。
私が勝手に震えているだけで、何も起こらないので、段々と頭が回りはじめた。そもそも本当に私の推測は合っているのか。女の子はただたまたまタバコをそこで吸っていただけじゃないのか。合っていたとして、なぜ女の子は姿を消したのか。私がマリネと恋人だったとマリネを追っている者は知らない?、あの女の子はひょっとしたら、マリネ側の人間?、マリネは女と一緒にいる?、マリネの新しい恋人?、やっぱりもう私は…。
ばたん、とどこかのドアが閉まる音がして、私は、そんなことを考えている場合ではないことを思い出した。こんなときにマリネだったらどうするか、やっぱりこの場から逃げることを考えるだろう。逃げる前に、何かひとつでも情報を得ようとするだろう。私は急いでベストポジションまで移動し、ベランダを覗き込むように見た。死体らしきものはなかった。何もなかった。他の部屋のベランダには雪が満遍なく積もっているのに、マリネの部屋のベランダは、所々雪がはげ、床さえ見える。バカな私でも、誰かが死体を運びだしたことはわかった。