勇者と段々崩壊していく世界 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

勇者と段々崩壊していく世界

恐る恐るフナムシからの手紙を開封した。とても短くて殴り書きされたものだった。
「俺はダメだった。お前には本当のことを報せる。何故そうするのかはわからない。剣士に手紙と荷物を託す。剣士と逃げてくれ」
手紙の中身はそれだけだった。
逃げろ、と言われても何からだ?。きっとメッセンジャーだったのだろう剣士はいま僕の目の前で死んでいる最中だ。
とにかくこのままだと僕の身が危険にさらされるのはわかった。フナムシもきっと死んだ。そんな状況なのに、ぼくは不思議と冷静だ。とりあえずフナムシから剣士に託された荷物とやらを探り、とっととこの部屋から出なければならない、と決めた。これは僕が寝ても覚めても行往坐臥つねに戦いに関連したことを考えていた武道家だったからではなく、きっとここ数ヶ月の間、何も出来る気がしなかった、せいだと思う。まるで暗い鬼が住み着いた精神に初めてはっきりとした、シンプルで疑いようの無い行動指針が示され、僕の脳内が堰を切ったように、今何をすべきか、を導き出そうとしているのだろう。自身の命が他者によりきっと問答無用で奪われる危機、という劇薬は、仕事帰りの彼女を目にして何もせず、何も出来ず、何をしていいかすらわからなかった僕にやらねばならぬことを思い出させた。その劇薬は彼女からはついに与えられなかった信用という薬だった。出来れば彼女からわずかな希望を信じられる行動と愛という、絶望から脱け出す薬を欲しかったが、僕の飲まされた薬は勝手にただならぬ事態に巻き込まれたことにより生まれた、絶望に導かれる薬だった。どちらも結果的に作用は同じだったのだから人間というものはよくわからない。
剣士は上着の中に小箱を抱えていた。僕には、実際にその小箱を見たことはなかったが、中に何が入っているのかよくわかった。この場で読むべきか、移動するか。僕はベランダから身を乗り出して先ほどよりもよくよく辺りを観察した。剣士の足取りが雪に残っていないか確かめるためだ。月明かりの期待できない真っ暗闇の中、目を凝らしてよく見ると、うっすらと一線を引くように通りから僕の部屋のベランダに雪が凹んでいるのが認められた。僕は今すぐ部屋を出なければならなくなった。
しばらく寒さに耐えられるようしっかりと、しかし素早く服を着込みながら、山籠りの度に世話になっていたナイフをポケットに入れる。山籠りグッズの中から小さな手鍋や水筒やクシ、園芸用の小さなスコップ、それから部屋の中のマッチを集め、フナムシから託された小箱と手紙と共にリュックにぶち込む。はたと気付いて彼女からの手紙や写真もぶち込む。最後に手帳をぶち込む。これでこの部屋に僕と彼女を繋げるものはないはずだ。できれば食糧が欲しいところだが、無いのだからしょうがない。予想以上にリュックが膨れてしまったが、そんなことを気にしている余裕はない。
雪道は逃走に向いていない。足跡は残り、小さな音ならば雪に吸収される。僕はとにかく一度眠らぬ街の大通りへと向かう必要があった。不特定多数の足跡が無数に刻まれた道へ。僕は駆け出した。
体力はだいぶ衰えたとはいえ、まだ脚には自信がある。馬でも使われない限り誰にも追いつけはしない。さすがに馬を使われたらこんな雪の日でも気付くだろう。その時は逃げるとは違う覚悟を前に出すしかない。
僕はフナムシとよく稽古をしていた歓楽街まで走った。とても遠かったが、その分色々と考えることができた。主に追手の有無や、これからの行動のことだった。歓楽街につきしばらくウロウロしながら人の出入りのある建物の中に入ると、僕は履いている靴の底をナイフで削り、靴跡の形を変えた。追手の影は見えないから、これで一安心といったところだ。
他に行くところも無いし、いずれにせよ最後に挨拶ぐらいはしなければならないと、僕は彼女の家へと向かうことにした。僕の行動に矛盾があるようだが、安心したことで多少甘い水をすすりにいこうと考えるのは、こんな状況でも必然のことだ。こんな状況だからこそ、生き残る力を分けて欲しかったのかもしれない。
彼女の住む町に着く頃には、闇が段々と薄くなりつつあった。図らずも、駅が動き始める時間だった。
この日はその気なしだったが、そんな日に限って見つけてしまうのだから、僕はついてない。