勇者と段々崩壊していく世界 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

勇者と段々崩壊していく世界

窓を少し開けると、部屋の中に冷気が染み出してくる。それはこのすきま風を通す部屋が部屋としてそれなりに機能している証でもあった。僕は普段通りに火鉢の側へ体を丸めながら向かう。くわえタバコで炭を箸で引っ掻いたりする。時折体を震わせては、うー、と小さな声で呻いたりする。
そんな普段通りの時行いをしている時、なにか変な臭いが鼻についた。なにか嗅いだことのあるようなないような不快な臭いだ。タバコを吸い終える頃、家を出たあと家を出る前に忘れないよう目立つ場所へ置いておいた物を忘れていることに気がついた時のように、その臭いのもとを思い出した。大便の臭いだった。
夕方の忘れ物かはたまた便所のトラブルか、僕は出来るだけ楽に解決できたらいいと祈りつつ便所の扉を開けた。便所は、便所なりに臭くはあったが、おおむねきれいだった。それを視認並び鼻認すると僕は大きな焦燥に襲われた。部屋の中から確実に大便の臭いがするのだからそれもしょうがないことだった。こんな状況があるのだろうか。一瞬にして様々なことが頭にうかぶ。泥棒稼業の縁起担ぎの一種には、盗みに入った宅で大便をひり出す、というものがあると聞いたことがある。ならば泥棒か?、いやしかしこの部屋に金目の物などもうなにも残っていない。部屋を見渡しても大便らしき物体はない。ついでに荒らされた形跡もない。灰皿だろうか。僕の吸うタバコの灰と少量の水が混じったものをしばらく放置した場合の臭いは大便のそれに近い。だが灰皿は夕方に洗ったばかりだった。灰皿の中身を捨てたゴミ箱に近づいてみるが、どうやら違う。とりあえず手を嗅いでみる。少し黄色味を帯びた左手の人差し指からタバコの臭いがする以外は、乾燥した肌の臭いしかしない。再三再四部屋を見渡してもブツは見当たらない。しかし確実に大便の臭いがする。この頃になると焦燥は怒りになり変わっていた。俺が一体なにをしたというんだ、俺は曲がりなりにも武道家で決して大便ハンターなんかではないぞ、大便ハンターってなんだよ、気がつけばブツブツと誰に聞かせるでもない言葉をつぶやいていた。
ようやくブツのありかに目星がついたのは、一度落ち着こうと、台所のシンクに腰を付けて紫煙をゆるりとくゆらせている時だった。窓を開けてから臭いがしはじめたことにやっと気づいた。僕はなにかを達成した余裕からかゆっくりと窓に近づいた。カーテンを開き、僕はざまあみろとの気持ちで深夜に、がたぴしと大きな音が立つのも構わず一気に窓をあけ開いた。
窓を開けた際に周囲の静寂を切り裂いた大きな音が、僕の日常が崩れ去る音ともなった。
ベランダの真ん中に厚手の布団を丸めた程度、こんもりと雪が積もっている。僕は信じられなかった。人の家のベランダにこんな大量の大便を捨てていく奴がいるなど、信じたくもなかった。大きな哺乳類の代表格、その名もゾウ、でも一頭で一度に出す量ではあるまい。ではなにか、僕が留守の間に数頭のゾウが僕の部屋のベランダに糞をしにやってきたというのか。部屋を借りるとき大家に、この部屋のベランダはたまに数頭のゾウが大便をしにくるけど構わない?、なんて説明された記憶はない。ええそうなんです、この部屋は僕達大便ハンターにとって大便を狙い大便に狙われる理想の環境が揃った安住の地です、まだまだ端くれですが一応大便ハンターの僕が言うのだからまちがいありません!、僕は現実逃避をしたくてしばらくそんなくだらないことばかりを考えていた。
そのこんもりとした雪の下に人の死体を発見したとき、僕がとにかく安堵したことは言うまでもない。なんだ、大便は人一人分しかないんだ、と。
絶対的安堵の下、よくわからない死体を前にタバコを吸い終えると、警察をよばなきゃなあ、と呑気に考えた。事件現場、きっとなんらかの事件であることに違いはないだろう、というやつに素人が手を加えるのは得策ではないとことぐらいは知っている。また現場に手を加えた結果疑われるのは勘弁だ。いや疑われるのはこの際どうもしようがないのではないか。とはいえ無実なのだから、大便臭くて大便臭くてでかい大便だと思いました、との弁解を弄することを覚悟でひとつ仏のツラぐらいは拝んでおくか。そんな好奇心から僕は死体に積もった雪を払う作業にとりかかった。
死体は、とんでもない形相をしていたが、なかなか鍛えられた顔つきの二十代後半と思しき男だった。こうなってくると僕の武道家としての興味が湧いてくる。体全体の雪を払うと、顔つきから察する通りの体をしていた。服装や手の指の太さなどから、僕はこの死体を喧嘩旅でもしている剣士ではないかと推測した。死体が剣を持っていないことと体の所々に赤黒いシミがあることから、勝負に敗れほうほうの体でこのベランダに逃げ込みそのまま息を引き取ったのだろうと考えた。
だが僕のそうした推測はすぐに打ち破られた。死体の胸ポケットに見覚えのある色の紙を発見したからだ。大便ハンターごっこや推理ごっこをして遊んでいた僕の緊張度が一気に高まった。点と点が結びつくとはこういうことかと我ながら関心するほどの確信を得た。死体の胸ポケットからその紙を引きずり出す。それはやっぱりフナムシからの手紙だった。