勇者と段々崩壊していく世界 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

勇者と段々崩壊していく世界

大陸一の要塞都市にしていまや王都であるトッツクポーリ。
もともとこの地は誰のものでもなかった。それぞれ二方を絶壁のような高い山、一方を海に囲まれた大陸三国。大陸の真ん中に空からみればまるで穴が空いたかのようにぽっかりと三つの山脈が途切れたこの地は、危険極まりない海の路をのぞけば唯一といえる三つの国を結ぶ交通の要所であった。その重要性故に不可侵を約束された希望の地だった。強いて誰のものかといえば、それはこの地を行き交う商人たちのものであったのだろう。
しかし、商人たちによる自治組織のようなものは作られなかった。そして決して町と呼べるものは作られることはなかった。それどころか三国がそれぞれの領地から引いた道路以外の建築物さえ作られることはなかった。三国はこの地トッツクポーリを管理しないが、誰かのものにすることだけは許さなかった。国力のほとんど変わらぬ三国が均衡を保つには、トッツクポーリの地にてどんなささいな新勢力の誕生も認められない。トッツクポーリはこの大陸の希望であったが、懸念でもあった。
そうして時は流れ、永遠にトッツクポーリをめぐるこの関係は続いていくものかと思われたが、およそ二百年前トッツクポーリは人の手に渡ることになる。北の王国ウエノが突如として"二国"を相手に戦争を始めたのだ。正確にいうならば西の王国ヒダリノへと攻め入った。名目はヒダリノ王の暴政からの解放だった。しかし噂によると真の目的はヒダリノの美しい姫がミギノの王子に嫁ぐことを防ぐ為だとされた。
ヒダリノは緒戦で大きく後退した。突然のことであったし、なにより大きい要因となったのは、ミギノ王国から援軍がこなかったからだ。ミギノ王国は動かなかった。王子の妃となる者の国を助けようとはしなかった。
はるか昔からトッツクポーリを介し戦争の抑止力となっていた二国対負ける運命にある一国の絵図はここに消えた。
ミギノ王国は二国の消耗を待ち、二国相手にイニシアチブを握ろうとしているとされた。そして機は熟せりとばかりに、争う二国のわずかな吸気を逃さず、トッツクポーリへ兵を進めた。
その気配を察したウエノ王国は全軍をトッツクポーリまで退き、今度はウエノとミギノの争いになった。
しかし今度はヒダリノ軍が動かない。本敵を撃つべきなのか裏切り者か。はたまたトッツクポーリの地をいただきに参るか。
問題はそれだけではない。戦争の大義がぶれだしてしまった。現場の兵士達の心情は如何ばかりか。この戦いは解放なのか奪略なのか。侵略なのか防衛なのか。
ヒダリノ王国がトッツクポーリ奪取に向けて進軍を開始する時には争っている二国の兵士達は既になんの為に戦っているか、なんの為に戦わざるを得ないのかに気がつきはじめていた。
「トッツクポーリの地が誰かのものであったなら」
三国の兵の中にぽつぽつと思春期のあばたのように友となり同士となる者が生まれ出でた。
それからはすぐだった。同士の数がそれ以外の者の数を超えると、同士達は一呼吸で反抗分子をトッツクポーリから締め出し、それぞれの国の兵はそれぞれの国へと続く通りを封鎖した。
同士達のリーダーはウエノの軍師、三国一の天才軍師と称されるタムラだった。
タムラは瞬く間にトッツクポーリを要塞にかえたとされる。後世の者から見れば、あらかじめタムラがこうなることを思い描いたとしか思えないような、必然の早さと運だった。燃えあがる山脈のような情熱を持つ人手と武力を持ち、突如トッツクポーリからはたき出された商人達を味方につけると物資に事足りぬことはなかった。同士達はもはや国と呼べる勢力となった。
このまま長い目で見れば既存の三国にとっては瞬間的に生まれた大きな勢力にすぎなかったかもしれない。しかしあまりにむくつけき勢力、あまりに強暴な瞬間最大風速は三国をトッツクポーリとの調停へと導いた。三つどもえの三国がどうしたものかと逡巡しているうちにもタムラのトッツクポーリ要塞化は着々と進んでいたことも脅威だったに違いない。
調停の内容はとても単純だった。
この争いをやめること。
要塞化を認めること。
トッツクポーリを国として独立を認めること。
これ以降三国の商人以外如何なる者もトッツクポーリを通行する時は通行料を払うこと。
三国の王達や執政達はこれら三方一両損の調停は淡々と結んだ。その時の彼等の顔は苦しさ紛れの笑みがあったといわれる。
果たして、時の天才軍師タムラにより"趣向"の髄を集めた築城、都市計画が施され、トッツクポーリは大陸一の要塞都市となった。
無論この二百年の間その存在に業を煮やした一国、または二国、はたまた三国がトッツクポーリを攻めたことがある。だがトッツクポーリはそれらすべてを、数万にのぼる数の兵士に包囲されても、頭の周りを回るハエを叩き振り払うが如く跳ね返し、冷淡なまでに叩き潰した。それぞれの通りに通ずる一本道を要害の地にかえたタムラの趣向は長く誰一人としてトッツクポーリ内に攻め入ることはさせなかった。
三国から通ずるトッツクポーリ内部に続く道。その道端には所々石碑がある。石碑には「勇気ある者ここに眠る」と刻まれていた。石碑は決して慰霊碑の類いではない。何処かの国や勢力がトッツクポーリを攻めた際、破れかぶれに近い無謀な突撃を行った者達への皮肉や挑発を込めた、トッツクポーリの態度を示すモニュメントだ。
石碑が街道を行く人々の目に触れると、トッツクポーリはいつしか他国の人々から"勇気の都"と呼ばれるようになった。
しかしまだトッツクポーリは王都ではなかった。なぜならトッツクポーリは王政ではなかったからだ。
トッツクポーリが王都となったのにはもちろん理由がある。至極当然のこととして、トッツクポーリに王が誕生したからだ。そしてその日はこの二百年難攻不落を極めたトッツクポーリが落ちた日でもある。
たった一人で、たった一人の手により、とても静かに、とても激しく、要塞都市トッツクポーリの歴史の幕は閉じた。
トッツクポーリを陥落させたその者は自らを魔王と称した。