メモ
日本の政治家の公用語を赤ちゃん言葉にしたらいいのに。
どうも斎藤智某です。日銭を稼ぎながらオヤジギャグを書いています。僕は2000万円のためなら不具になってもかまわない。だから僕は金に困ってる人間を描くことはないのだ。2000万円を得ることもないのだ。大が小を兼ねるのはこの世の真理なのだからどうするもこうするもないのだ。貧乏人が金持ちにまさる点など、こと貧乏においてさえもありはしないのだ。ヤスオにギャグでも勝てはしないのだ。これは醜い所業なのだ。醜い嫉妬なのだ。
かの小説に対するすべての批判は、かつて芥川竜之介が「朱儒の言葉」の中で記した「半肯定論法」のように、「それだけだ」の世界に終始するだろう。「はつらつとしてるが、それだけだ」「手軽に読めるが、それだけだ」「一気に読める。それだけだ」。それだけだ、とそれだけしか言えない評論家にかぎって彼の小説を我先にと読み、それだけだとわざわざ草の根かき分けてでもいいふらし、次にまたそれだけだと言うことのできる書物をさがす。だがそれもしようがない。それだけだってものも世の中にはある。人生自体がそれだけのものに過ぎない。。僕は2000万円がどうしても欲しいのだ。やりたいことがたくさんあるのだ。数え切れやしないよ。ひとつもふたつも数え切れやしないよ。
悲運は努力すればするほど、学べば学ぶほど文の技術者としてより確かになっていったこと。
夢野久作はやたらキャラクターのネーミングに凝る人だった。かっこいいキャラクターにはそれなりにかっこいい名前を、深窓の美少女ならばそれなりにどこか透き通るような肌を思い浮かべる名前をつけるべきだ、と、それはまあどの作家もそうなのだけれど、それに夢野久作は異常なほどこだわりがあった。こだわりというよりも夢野久作のコンプレックスから生じた偏執だと思う。理論では当時の作家たちにかなわないなら感覚には強いこだわりがなければいけないというような。時に本編の推敲よりネーミングに時間がかかったというし、時に名作の登場人物の名に腹に据えかねる、いっそ自分が名前を書き換えたいとばかりに文句をつけた、ぐらいネーミング観にこだわりがあった。
ものっそいあっさりとしかも大胆にそのネーミング観を述べるならば、普通にありそうで、しかしキャラの持つ見た目を読書にある程度統一されたイメージを与えることができて(当たり前だが作者が創作した作者の脳内にのみ存在するオリジナルなキャラと同じくするイメージを読者に連想させるということ。欲張りなことだ)なおかつやはりどこか現実離れした、そんな名前。登場人物のネーミングがその作品のすべてだと夢野久作は言った。そういう作り手、たまにいる。
夢野久作のキャラクターネーミング観は「豚男とヒョロ子」によくあらわれている。というよりも、これはタイトルから察せられるように、「豚男とヒョロ子」はネーミングという技法のみをノウハウに書かれた小説だ。内容はまあめちゃくちゃで(なんせネーミングだけで書かれたから)、「豚男」と「ヒョロ子」の夫婦が「無茶先生」にそうとうな無茶をされる、というあってないようなもんだが(好きだけど)、タイトルから始まったネーミングの技法が物語の最後になってちょろっと補足のような感じで登場し物語は完結するのだが、夢野久作のネーミング観を先に知っている人にはその申し訳程度のちょろっとした物語のオチが、知らない人はおいてけぼりをくらうに違いないオチが、ははあんなるほどなあ、と嘆息するに至る
これはメモよ。メモなのよ。2000万円が欲しい。とても欲しいのだよ。3150万払っても2000万円が欲しい。
どうも斎藤智某です。日銭を稼ぎながらオヤジギャグを書いています。僕は2000万円のためなら不具になってもかまわない。だから僕は金に困ってる人間を描くことはないのだ。2000万円を得ることもないのだ。大が小を兼ねるのはこの世の真理なのだからどうするもこうするもないのだ。貧乏人が金持ちにまさる点など、こと貧乏においてさえもありはしないのだ。ヤスオにギャグでも勝てはしないのだ。これは醜い所業なのだ。醜い嫉妬なのだ。
かの小説に対するすべての批判は、かつて芥川竜之介が「朱儒の言葉」の中で記した「半肯定論法」のように、「それだけだ」の世界に終始するだろう。「はつらつとしてるが、それだけだ」「手軽に読めるが、それだけだ」「一気に読める。それだけだ」。それだけだ、とそれだけしか言えない評論家にかぎって彼の小説を我先にと読み、それだけだとわざわざ草の根かき分けてでもいいふらし、次にまたそれだけだと言うことのできる書物をさがす。だがそれもしようがない。それだけだってものも世の中にはある。人生自体がそれだけのものに過ぎない。。僕は2000万円がどうしても欲しいのだ。やりたいことがたくさんあるのだ。数え切れやしないよ。ひとつもふたつも数え切れやしないよ。
悲運は努力すればするほど、学べば学ぶほど文の技術者としてより確かになっていったこと。
夢野久作はやたらキャラクターのネーミングに凝る人だった。かっこいいキャラクターにはそれなりにかっこいい名前を、深窓の美少女ならばそれなりにどこか透き通るような肌を思い浮かべる名前をつけるべきだ、と、それはまあどの作家もそうなのだけれど、それに夢野久作は異常なほどこだわりがあった。こだわりというよりも夢野久作のコンプレックスから生じた偏執だと思う。理論では当時の作家たちにかなわないなら感覚には強いこだわりがなければいけないというような。時に本編の推敲よりネーミングに時間がかかったというし、時に名作の登場人物の名に腹に据えかねる、いっそ自分が名前を書き換えたいとばかりに文句をつけた、ぐらいネーミング観にこだわりがあった。
ものっそいあっさりとしかも大胆にそのネーミング観を述べるならば、普通にありそうで、しかしキャラの持つ見た目を読書にある程度統一されたイメージを与えることができて(当たり前だが作者が創作した作者の脳内にのみ存在するオリジナルなキャラと同じくするイメージを読者に連想させるということ。欲張りなことだ)なおかつやはりどこか現実離れした、そんな名前。登場人物のネーミングがその作品のすべてだと夢野久作は言った。そういう作り手、たまにいる。
夢野久作のキャラクターネーミング観は「豚男とヒョロ子」によくあらわれている。というよりも、これはタイトルから察せられるように、「豚男とヒョロ子」はネーミングという技法のみをノウハウに書かれた小説だ。内容はまあめちゃくちゃで(なんせネーミングだけで書かれたから)、「豚男」と「ヒョロ子」の夫婦が「無茶先生」にそうとうな無茶をされる、というあってないようなもんだが(好きだけど)、タイトルから始まったネーミングの技法が物語の最後になってちょろっと補足のような感じで登場し物語は完結するのだが、夢野久作のネーミング観を先に知っている人にはその申し訳程度のちょろっとした物語のオチが、知らない人はおいてけぼりをくらうに違いないオチが、ははあんなるほどなあ、と嘆息するに至る
これはメモよ。メモなのよ。2000万円が欲しい。とても欲しいのだよ。3150万払っても2000万円が欲しい。