金庫 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

金庫

「OK。そこに置いてくれ」
重量80キロになる古い箱形金庫を、真っ赤な顔をして運ぶふたりの部下に指示を出す。
「ゆっくり置いてくれよ。よもや床が抜ける事態にはならんだろうがね」
私はリビングのソファーに鷹揚とした然で座り、タバコをくゆらせている。
私はつい先日まで会社を経営していた。私を含め社員三名とパート一名の小さな雑貨問屋だ。親から継いだ店だったが、もともと私には向上心というものが欠如しているように思える。親父の代には大きな倉庫をいくつか抱えるほどの問屋だったが、連なる不況とそれにともなう物流形態の変化に、私はついて行く気すら起こさなかった。親から教わった今までとおりの経営を怠慢に維持し、取引先が次々と潰れたり大手に吸収されたりするなか、新たな取引先や流通経路などを開拓する気もさらさらなく、ただ斜陽のひなびた消えゆく光の中に身を置いた。潮時を待つなか、この度ついに会社を畳むことになった。ふたりの社員には悪く思う。
「社長。こんな感じで」
人ひとり入れるだろうその金庫を所定の位置に設置し終えた部下が私に確認を求める。
この金庫は私が生まれる以前の創業時からあるらしい。店を畳む時、売れるものは売り、引き取り手のあるものは引き取ってもらい、処分できるものは全て処分し、唯一残ったものがこの金庫だ。
いつ頃からだろう。創業時からあるといわれるものの、少なくとも親父が倒れ、私が店を継ぐ頃には、この金庫は金庫としての役目を既に終えていた。というのも、事務所をひっくり返しても実家をひっくり返しても、どうしても鍵が見つからない。鍵が見つからないし、ダイアルの手順も知れない。中に何が入っているのか誰もわからない。
店を継ぐドタバタの渦中にも、この金庫を開けなくてはならない必要はなかった。死んだ母親も、ろくなものは入ってない、動かすのも面倒だから置いてるだけだ、と言っていた。
中が気にならないと言えば嘘になるが、わざわざ鍵屋なりなんなりの業者を呼んで開錠する気は起こらない。わざわざ第三者を呼んでまで開けて中が何も入ってなかったら興ざめだ。あまつさえ親父もしくは両親の秘密が隠されていたりしたら、恥以外の何者ではない。ではなぜ自宅に運んだりしたのか。言うなれば、店の残り香だから、になるだろう。
「大丈夫だ。ありがとう」
最後の社長命令を終え、今からふたりは元部下になった。
「社長、いまからどうします?」
私はふたりに手間賃を渡した。
「これでふたりで何か食ってくれ。最後まで悪いな。おれはこれからジムに行く」
私がそう言うと、ふたりは呆れた顔をして、
「ああ、そうですか」と言った。

ジム仲間は私のことをベンチフリークと呼ぶが、トレーナーたちが私をそう呼ぶことはない。
後者が正しい。私はベンチプレスしかやりにジムへと足を運ばないが、ベンチフリークではない。ただベンチプレスで上げる重量におかしなこだわりがあるだけだ。
私が上げられる最大の重量は100キロだ。今も昔も100キロのまま、その腕力を維持している。
高校生の頃、私は野球部に所属していた。だがいかんせん野球は下手くそで、三年間一度も公式戦に参加したことがない。私の学校の野球部は4軍まである甲子園の常連校で、もちろん私はその4軍だった。3軍までは曲がりなりにもグラウンドを使い“野球”をしていたが、私たち4軍は下手をするとスタンドの応援すら呼ばれないような、ただ部活に所属している名目を得るためだけに存在しているような、部費集め要因のような、要するに完全なみそっかすだった。私たちが顧問からことづかった活動内容と言えば、体育館に集まり上の軍が使用するトレーニング機材を整備するぐらいで、後はフリー。
そのときに私はベンチプレスを始めた。なんせそれぐらいしかやることがない。
そもそも野球はあまり好きではなかった私と他の奴らは、トレーニング機材を整備準備するかたわらに、せっせと肉体鍛錬に励んでいた。野球部じゃなくてボディビル部に変えろ、と担任に言われた記憶がある。
不妊に悩んでいた両親がようやく生まれた私を甘やかして育てたおかげか、私は非力で、最初に上げられた重量は40キロが精一杯だった。しかし、その後三年間それを続けていくなかで、重量を100キロまで上乗せすることができるようになった。他人から見れば笑いぐさかもしれないが、このことは私にとって立派な三年間の成果で、私にとって唯一誇れるような努力の賜物だった。
高校を卒業して家業に移ってからしばらくはベンチプレスをする機会はなかったが、ダンベルを買って無手勝流のトレーニングを続けていた。そして親父が倒れたのを契機に、私はジムに通うようになった。
おそらく、軸を持ちたかったからだろう。ふってわいた責任ある立場に、私は私なりに呵責を感じていた。これを出来ていれば大丈夫だ、とのような自分の中の、確固たる軸、が欲しかったに違いない。そしてその軸になるものといえば、私の中で100キロのベンチプレスを上げられること以外なかった。

「ちゃんと胸元までシャフトを下ろして」
今日もトレーナーが私に言う。確かに肉体鍛錬にはそうするのがいいのだろう。しかし、ちゃんとした形でバーベルを上げること、それは私にとってあまり意味がない。なぜなら私にとってベンチプレスとは肉体鍛錬を目的としたものではなく、100キロを自分で納得できるやり方で上げられることが目的なのだから。高校当時から、私は胸元までシャフトを下ろしたら上げられることはできなかった。浅いベンチプレスだ。
私は毎月一回、私が上げられる最大の重量である100キロのベンチプレスを試み、そして今日も合格した。それでいいのだ。それが私の軸なのだ。

さて、家に帰ってもやることがない。仕事もなければ、さしたる趣味もない。あるものといえば例の金庫だ。
とりあえず叩いてみる。手が痛くなった。蹴っぽってみる。案の定、脚が痛くなった。まじまじと金庫をみると扉の蝶番が多少錆びついているようだが、寝よう。

「ライオンとトラ、戦ったらどっちが強いと思う?」
「うーん、大きいのはどっち?」
「トラ。トラの方が一回り、いや二回り大きい。ああ、オスの話だ」
「じゃあトラ」
「ふむ、まあそうなるだろう。私がそうなるよう誘導したからね。ということは正解は」
「ライオン」
「そう、ライオンだ」
「へえ、百獣の王は密林の王者に勝るんだ」
「というのも、トラという生き物は群をなさない。そして、成体となったトラに、おおよそライバルはいない。まさしく密林の王者なんだ。しかし、ライオンは群をなして暮らしている。そしてライバルがいる。ライバルとは他の肉食獣のことじゃない。他のライオンのことなんだ。ライオンのオスは成長すると群から離れて、メスの群をガードするオスと、メスとメスのとってくる食料をかけた覇権争いをする。そう、オスのライオンは常にオスライオン同士で戦う。トラはトラ同士で戦うなんてことはないんだ。ライオンのたてがみは首を噛まれてもダメージを受けにくい為にあるといわれる。いわば、トラは弱者を狩ることに長けた種が生き残り進化していったのに対し、ライオンは自分と同等の肉食獣と戦って勝つ種が生き残って進化してきたんだ。ということはつまり、ライオンはトラと戦うすべを持っているが、トラはそうじゃない。だからライオンが勝つ」
「はあ」
「しかし、ここでクマの存在が浮上してくる。クマとトラは、ライオンとトラと違い生息域が一致している。自然下で普通に遭遇する。おもしろい結果があるのだがね、昔、見世物で猛獣と猛獣を戦わしたショーがあったんだが、トラとクマを戦わすと、クマは戦うもなにも尻尾をまいて逃げ惑うんだ。クマはトラが密林の王者であることを遺伝子レベルで知ってるんだ。実際、トラはクマを捕食するからね。だけど相手がライオンとなると、クマはライオンを一方的に撲殺したという記録がある」
「………」
「三つどもえだよ。ライオンとトラとクマは三つどもえなんだ。三つどもえなんだ」
「ねえ、新しいお酒頼んでいい?」
「駄目だ。私はいま失業中なんだよ」

キャバクラ帰りの夜、安い酒を飲みすぎたつけか、帰宅した私はリビングの床で着の身着のまま、横になった。視界には金庫がうつる。その金属のかたまりが妙に暖かく瞳にうつる。金庫の中に何が入っているのかは知らないが、両親との思い出、子供のころの思い出、金庫はそんなノスタルジックを抱えていることは確かだった。

時に深く時に浅く、私はぎっこらぎっこらと心地よく船を漕いでいた。明け方間近のことだったろう。夜の闇が一等濃くなるそのとき、私の住む地区を大地震が襲った。
立ち上がれない。グラグラという擬音では間に合わない衝撃に襲われる。
暗闇の中、キン、という金属音がしたと同時に、私は意識をなくした。
気がつくと、私はなにかの下敷きにされていた。下半身はタンスに覆われ、タンスにつっかえた形で金庫の片端が私の胸を圧迫しているらしかった。タンスにつっかえてなく、金庫の全重量が仰向けになっている私を直撃していたら、きっと気がつくことはなかったろう。地獄で仏か泣きっ面に蜂か、この事態をどうたとえればいいのか私にはわからない。
しかし私には生きていく為の軸がある。金庫の重量は80キロほど、私はそれを持ち上げられるはずなのだ。
体と金庫の間にに両手を差し込み、力を込める。動いた。動いたが、持ち上がるにはいたらなかった。「ちゃんと胸元までシャフトをおろして」、トレーナーに口酸っぱくいわれてきた言葉が頭に響く。
少しだけ金庫を浮かせられたのをきっかけに、私は下半身からタンスをのけることに成功した。私は安心した。それによって金庫の全重量が私の上半身にかかることになるが、脚をを金庫の方に使える。
なんとか足の裏を金庫にあてがうことに成功した私は重力の反転したような四つんばいの体勢になるべく一気に力を込めた。だが、キンという私が地震に見まわれた時に聴いた金属音がまた鳴ると、急に金庫が軽くなり、どん、という音が私を包んだ。
なにが起こったか察するべく、私は逆四つんばいのまま辺りを探った。しかし、探るまでもなかった。私は何かに体を密着している。私の周りは四面硬い金属に妨げられている。
いま私は金庫の中にいる。金庫の扉が外れたのだ。さびついた蝶番が外れたのだ。すっぽりとはまってしまった。
この人ひとりが精一杯の中で、手足をあてがっていた金庫の扉はどうなっているのだろう。それに気がついた時、左腕と左足に初めて鈍痛を感じた。左腕と左足は金庫の下敷きになっていた。潰れた手足は私の脳から発せられる信号を全く通さない。
もはや私に金庫をから脱出するすべは完全になくなった。私の左側を犠牲に金庫は少し傾いていたが、金庫の中の小さな空間からでは、満足にテコもできない。
死を覚悟した私は、ふと金庫の中身について考えだした。金庫に生じた隙間から光が漏れてきたこともそれに至る要因だったろう。
しかし、金庫の中にはなにもなかった。
私はこんな事態でなぜか笑った。
そして、外の光が家から発生した火事であることがわかった。
この金庫が耐火性だったかどうか。
そんなことを考えながら私は瞳を閉じた。段々と暖まる金庫の中に、私は母の胎内を感じ、その身を任せた。

男の遺体が発見された時、金庫の外に出された男の黒こげとなった左手の中に小さな瓶が握られていた。瓶の中にはへその緒のようなものが入っていた。金庫の扉が外れた折に、一緒に飛び出たのだろう。ついに男は金庫の中身を知ることはなかった。
男が最期に感じたものはこれのせいだったのだろうか。いや、違う。
これはへその緒ではなく、男の父親が不妊治療の一環として行った包茎手術をした時の余りものに他ならない。
故に、男が最期に感じたものは胎内ではなく、精巣内の感覚であることは明確なのである。明確、なのである。明確なのであった。



モヤモヤ。なんなんだよおれは………無駄にケータイメール文字量ギリギリだよ。きんたま入ってたことにしたかったんだけどね。