アノマニスからの脱却(3)
佐井九神観(さいくかのみ)は、この日神述べ様に呼び出されていた。佐井九は神見にまとわりついたレイのことを、悪い虫、と識別していたけど、レイが店に来たときはいつもニコニコ親切応対を貫いていたよ。よく言うじゃない、お客様は神様だって。
佐井九は神見の婚約者ってやつだったんだよね。だったんだ、ではないか、婚約者なんだよ。40手前のハゲかけた小太りのおっさんなんだけどさ。神見が生まれたときから婚約者って決まってたんだ。年齢云々に文句のひとつもいいたいけど、神見が生まれた当時、彼氏はハタチそこいらで、まあ美少年だったんだよね。いまでは見る影もないけど。神童も二十歳過ぎればただの人とは云うけれど、美人は二十歳過ぎてからが問題なんだよ。十代でいかにかっこよくても、結果これじゃあねえ。アイドルの経年変化、がっかりだよ。遺伝子はかっこいい、現在のありようを言い訳するなら遺伝子レベルまでいかなきゃならない。ああいやだいやだ。
苦労したんだよ彼氏も、24のときに両親が交通事故で死んで、勤めてた会社を辞め、遺された店をコンビニにして、ハゲたり太ったりしながらなんとかやってきた。ま、大きなヘルプをもらった、いや引き継いではいたんだけどさ。
アノマロカリス教ってやつは、神見の家が“本部”と銘打たれているよう、決して小さい新興宗教ではない。ま、そうでかくもないけど。信者の数は数えもきれない。だって、人類はみなアノマロカリス教だからね。そういう教えなんだよ。神の子ってやつ。熱心な信者の数は300人ほどだと、ポリスは言っているけどね。300人もの人から熱心なヘルプを受けるんだから、それはそれは大層なもんだよ。カンブリア紀の生物を御本尊にしたこんなエキセントリックなものにも、人は救いを求めうるんだねえ。
ああ、その60億人をくだらない、在野の信者達、のことを教団では“アノマニス”と呼んでいる。匿名とか無名、作者不明とかの意味の“アノニマス”からきている言葉で、教団名との語呂の関係から、アノマニスと呼ばれるんだ。
ちゃんとした、定期的に喜捨をしている信者のことは、教徒、って呼んでいる。語呂関係ないのかよ。語呂関係ないのかよってさ。
佐井九の親はアノマロカリス教の設立メンバーだった。神見の家はもともと宗教をやっててさ、普通の仏教系団体だったんだけど、そこから若くして、親に反旗を翻した形で独立した形。教団が誕生した年に佐井九は生まれたんだ。そんなもんだから初期構想では二代目神述べ様は佐井九だったんだけど、それは名前にも現れている、だけど…まあ、そんな感じ。
レイは応接間に通された。応接間と言や聞こえはいいけど、道場だね。建物の構造上応接間のはずなんだけど、椅子やソファーがないし、オヤジの後ろにはアノマロカリスの化石みたいなやつが玉座にでんと鎮座ましましてる。
神見はまだ来ない。ひょっとしたら、神見とは会えない。レイはそんな気がしたよ。
粗茶のひとつもだす前に、オヤジは胡座をかいてやたら分厚い座布団に座ると開口一番、怒声罵声を張りあげた。レイは板張りに直で座ってる。一応正座。痛い。
わかってたことだけど、まあ、神見に手をかけたことについてだよ。
レイは起き抜けで、習慣のコーヒーもタバコものんでる暇なかったもんだから、頭と口の中がカラカラに渇いててさ。ましてや結構な距離歩かされたからさ、もう大変。脳のエネルギーになる糖分が不足しているもんだから、まるで応えやしない。オヤジの言葉にも、自分自身にも。
怒鳴られ続けるレイが考えていることは、家を出る際、慌てて身支度をしていたときポケットに忍ばせたキャンディを、神見の誕生日に行った遊園地で買ったキャンディを、どのタイミングでいつ口にするか、だった。ぼんやりして回らない頭じゃ、論破もクソもないからさ。あと、水分が欲しい。できればこの説教かなんかしらないものに、タバコ休憩を挟んでそのときに、なんて思って、レイは心の中で笑った。そんなことできるわけないからね。
「神見は特別な子だ!!、たぶらかすのもいい加減にしろ!!」
「はあ、いや、たぶらかすと申されますが」
「あの子は人類の救済者になる子なんだぞ!!」
「救済者、きゅうさい、青汁ですか?、なんちゃ」
「ああ!?」
「なんでもないですはい」
「ことの次第がわかっているのかお前は!!」
「はあ、できればそのことの次第ってやつを丁寧に説明してください」
「お前!!」
レイは妙なところで肝が座っていてね。伊達に社会からうろんじられ、石を投げつけられる存在、不幸者、ニート、を長年やってなかったよ。一体何年間馬の耳に念仏を決め込んできたことか。肝が座っているというよりも、打たれ弱いが素早く身を隠す、まるで某RPGゲームの某レアモンスターのようだね。
一応、柳に風を決めて、受け流した力を相手に返す、世に言うところの「風車の理論」でオヤジを丸め込んでやろうだなんて思っちゃいるけどさ、
「お前は世界を破壊する気か!!」
「世界とは」
「あの子の世界だ!!
「え、神見の世界?」
「お前ごときがあの子の名を口にするな!!」
「いやしかし、名字で呼んだら三人称と二人称がごっちゃに」
「うるさい!!」
「はあ」
こんな具合で、にっちもさっちもいかない。やはり頭にエネルギーが足りない。
「あの子の世界、救済、幸福、そして感嘆に満ち溢れた世界を壊して、貴様はどうしたいんだ!!」
「どうしたい、まあ、できればいまあなたが仰った世界を………」僕とふたりで、との言葉が喉元まできて、レイはごくりと唾をのんだ。
まさしく、レイにとって神見は、救済と幸福、そして感嘆に満ち溢れた世界そのものだった。
「あの子の世界を、なんだ!?、どうするんだ!?、あの子はあらゆる生命が爆誕する鍵であり、その世界の中心に立ち、その世界そのものになるんだぞ!!」
「あの、あまり声を張り上げると、お体に障りますよ」
「いいから答えろアノマニス!!」
「アノマニス?」
このときだね。レイに妙案が浮かんだのは。
“そうだ。正座から胡座にポジションチェンジするどさくさに紛れてポケットからキャンディを取り出してしまえばいいんだ”
って。
案外難しい行動だよ。いや、ポケットからキャンディを取り出すことは特に難しいわけじゃない。難しいのは取り出したキャンディをいかにバレずに開封し、口に入れるか、だ。この作業にはマジシャンのような片手による精密動作性が求められる。
そしてレイはポケットから左手にキャンディを移すことに成功した。なぜ左手かというと、レイは右利きで、いままでの間落ち着きなく、精神の均衡を保つために、後頭部をかいたり、唇や鼻をなぞったりしていたのは右手だったからだ。右手のアクションにオヤジを注目させておいてその隙に服を破り、咳かくしゃみでもするフリをして、そんな作戦さ。
「どうだというのだ!!」
「それは、僕が彼女を愛してるかどうかってことですか?」
「ふざけるな!!」
「まあ、そう、でしょうねえ」
レイは何度目かの後頭部かきしだきアクションをとった。幸運なことに、思っていたより容易く、キャンディの包みを切り裂くことができた。開封した瞬間、下品な甘い香りがレイの鼻孔に到達した。まずい。バレてしまう。レイは屁でもこくしかないと、本気で思ったけど、出そうになかった。というよりも、身が出そうだった。そうだ。
レイはまだ朝の習慣であるところの大便を済ましてないことに気がついちゃった。
人間、何かに気がついちゃうと、それを実行できない状況であればあるほど、荒れるよね。精神。
レイはオヤジに排便を所望した。オヤジは相も変わらず「ふざけるな」と言ったが、
「ここでやってもいいんだぞ!!」
レイがはじめて見せた鬼気迫る表情、そして迫力とパワーに溢れたメッセージに気圧されたのか、オヤジは、「逃げるなよ」と言って、それを許した。
トイレに入り、レイは大便をした。左手がキャンディのせいでべったべたになっててさ。とても残念な気持ちにさせられたよ。追い詰められて急に思い立った行動の結果なんて、まあこんなもんでしょ。
もちろん大便だけでなく、キャンディを舐めたし、タバコも吸った。大便とキャンディとタバコの混じった臭気が、レイを冷静にさせたよ。置かれている状況を鑑みる。オヤジの言ってることはむちゃくちゃだ。このまま逃げるのも一手。警察に行くか。しかし、ひょっとしたら要塞の中に入るときくぐったあのチンケなアルミ扉は開けられないようになってるかもしれない。飛び越えるのは体力的に無理だろう。どうしておれは入ってくる時に扉の鍵の有無や、足場となりそうな道具などを確認しなかったのか。相手はむちゃくちゃな奴だ。何をされるかわかったもんじゃない。逃げるにしても、じゃあ神見はどうなる。どうやら家族以上に大事な“もの”らしいから、まさか傷つけたりはしないだろう。しかし、ああ、いま神見はどこにいる。何をしている。彼女次第、おれの行動は彼女次第なんだ。彼女に死ねと言われればおれは安心立命のうちに死ぬ。連れて行ってと言われたら、コンクリートの壁だってぶち破って、太陽光線をみせてやる、のに。
レイがトイレでなにやらぶつぶつと空想に励んでいると、鍵のかかった扉に手をかけた者がいた。ガチャとなった音に、レイは一瞬、さっと血の気が引いたよ。オヤジが来たのかって思ったからさ。
「ああ、すいません」
扉の前にいる男はそう言って、どうやらどっかに行ったらしい。そこそこ大きい家で、ましてや本部と称される場所だ、トイレがひとつなわけがないだろう。やましい奴ってのはだいたい専用のトイレを持ってるからね。別のトイレにでも行ったんだろう。
それにしても、「どっかで聴いたことある声だな」って、レイは換気扇に向かって甘苦い煙を吐きながら思ったよ。
オヤジの場所まで戻ると、オヤジはいなかった。これは逃げるチャンスかなと思ったけど、やめた。いざとなればオヤジの一匹ぐらい倒せるはずだ。そんな都合のいいことを思ったとき、さっきのトイレ男のことを思い出してげんなりした。
そんなことを思案していると、オヤジが現れた。相変わらずムカムカムカムカしてる。だけど、その後ろ姿、シャツの一部がスラックスから飛び出てる。
「もういい」
オヤジはそう言いながら胡座を組んだ。
「これだけ、はいかいいえで答えろ」
先程とはうってかわり、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、妙に落ち着いたふうでレイに語りかけた。
「お前はアノマニスか?」
アノマニスってなんのことだろう?、それを訊く前にレイは答えちゃった。だけど、それを訊いて説明されたあとでも、レイの答えは一緒だったろうけどね。
「アノマニスと呼ばれて振り向いたことはないですから、きっと違うでしょうねえ」
続
佐井九は神見の婚約者ってやつだったんだよね。だったんだ、ではないか、婚約者なんだよ。40手前のハゲかけた小太りのおっさんなんだけどさ。神見が生まれたときから婚約者って決まってたんだ。年齢云々に文句のひとつもいいたいけど、神見が生まれた当時、彼氏はハタチそこいらで、まあ美少年だったんだよね。いまでは見る影もないけど。神童も二十歳過ぎればただの人とは云うけれど、美人は二十歳過ぎてからが問題なんだよ。十代でいかにかっこよくても、結果これじゃあねえ。アイドルの経年変化、がっかりだよ。遺伝子はかっこいい、現在のありようを言い訳するなら遺伝子レベルまでいかなきゃならない。ああいやだいやだ。
苦労したんだよ彼氏も、24のときに両親が交通事故で死んで、勤めてた会社を辞め、遺された店をコンビニにして、ハゲたり太ったりしながらなんとかやってきた。ま、大きなヘルプをもらった、いや引き継いではいたんだけどさ。
アノマロカリス教ってやつは、神見の家が“本部”と銘打たれているよう、決して小さい新興宗教ではない。ま、そうでかくもないけど。信者の数は数えもきれない。だって、人類はみなアノマロカリス教だからね。そういう教えなんだよ。神の子ってやつ。熱心な信者の数は300人ほどだと、ポリスは言っているけどね。300人もの人から熱心なヘルプを受けるんだから、それはそれは大層なもんだよ。カンブリア紀の生物を御本尊にしたこんなエキセントリックなものにも、人は救いを求めうるんだねえ。
ああ、その60億人をくだらない、在野の信者達、のことを教団では“アノマニス”と呼んでいる。匿名とか無名、作者不明とかの意味の“アノニマス”からきている言葉で、教団名との語呂の関係から、アノマニスと呼ばれるんだ。
ちゃんとした、定期的に喜捨をしている信者のことは、教徒、って呼んでいる。語呂関係ないのかよ。語呂関係ないのかよってさ。
佐井九の親はアノマロカリス教の設立メンバーだった。神見の家はもともと宗教をやっててさ、普通の仏教系団体だったんだけど、そこから若くして、親に反旗を翻した形で独立した形。教団が誕生した年に佐井九は生まれたんだ。そんなもんだから初期構想では二代目神述べ様は佐井九だったんだけど、それは名前にも現れている、だけど…まあ、そんな感じ。
レイは応接間に通された。応接間と言や聞こえはいいけど、道場だね。建物の構造上応接間のはずなんだけど、椅子やソファーがないし、オヤジの後ろにはアノマロカリスの化石みたいなやつが玉座にでんと鎮座ましましてる。
神見はまだ来ない。ひょっとしたら、神見とは会えない。レイはそんな気がしたよ。
粗茶のひとつもだす前に、オヤジは胡座をかいてやたら分厚い座布団に座ると開口一番、怒声罵声を張りあげた。レイは板張りに直で座ってる。一応正座。痛い。
わかってたことだけど、まあ、神見に手をかけたことについてだよ。
レイは起き抜けで、習慣のコーヒーもタバコものんでる暇なかったもんだから、頭と口の中がカラカラに渇いててさ。ましてや結構な距離歩かされたからさ、もう大変。脳のエネルギーになる糖分が不足しているもんだから、まるで応えやしない。オヤジの言葉にも、自分自身にも。
怒鳴られ続けるレイが考えていることは、家を出る際、慌てて身支度をしていたときポケットに忍ばせたキャンディを、神見の誕生日に行った遊園地で買ったキャンディを、どのタイミングでいつ口にするか、だった。ぼんやりして回らない頭じゃ、論破もクソもないからさ。あと、水分が欲しい。できればこの説教かなんかしらないものに、タバコ休憩を挟んでそのときに、なんて思って、レイは心の中で笑った。そんなことできるわけないからね。
「神見は特別な子だ!!、たぶらかすのもいい加減にしろ!!」
「はあ、いや、たぶらかすと申されますが」
「あの子は人類の救済者になる子なんだぞ!!」
「救済者、きゅうさい、青汁ですか?、なんちゃ」
「ああ!?」
「なんでもないですはい」
「ことの次第がわかっているのかお前は!!」
「はあ、できればそのことの次第ってやつを丁寧に説明してください」
「お前!!」
レイは妙なところで肝が座っていてね。伊達に社会からうろんじられ、石を投げつけられる存在、不幸者、ニート、を長年やってなかったよ。一体何年間馬の耳に念仏を決め込んできたことか。肝が座っているというよりも、打たれ弱いが素早く身を隠す、まるで某RPGゲームの某レアモンスターのようだね。
一応、柳に風を決めて、受け流した力を相手に返す、世に言うところの「風車の理論」でオヤジを丸め込んでやろうだなんて思っちゃいるけどさ、
「お前は世界を破壊する気か!!」
「世界とは」
「あの子の世界だ!!
「え、神見の世界?」
「お前ごときがあの子の名を口にするな!!」
「いやしかし、名字で呼んだら三人称と二人称がごっちゃに」
「うるさい!!」
「はあ」
こんな具合で、にっちもさっちもいかない。やはり頭にエネルギーが足りない。
「あの子の世界、救済、幸福、そして感嘆に満ち溢れた世界を壊して、貴様はどうしたいんだ!!」
「どうしたい、まあ、できればいまあなたが仰った世界を………」僕とふたりで、との言葉が喉元まできて、レイはごくりと唾をのんだ。
まさしく、レイにとって神見は、救済と幸福、そして感嘆に満ち溢れた世界そのものだった。
「あの子の世界を、なんだ!?、どうするんだ!?、あの子はあらゆる生命が爆誕する鍵であり、その世界の中心に立ち、その世界そのものになるんだぞ!!」
「あの、あまり声を張り上げると、お体に障りますよ」
「いいから答えろアノマニス!!」
「アノマニス?」
このときだね。レイに妙案が浮かんだのは。
“そうだ。正座から胡座にポジションチェンジするどさくさに紛れてポケットからキャンディを取り出してしまえばいいんだ”
って。
案外難しい行動だよ。いや、ポケットからキャンディを取り出すことは特に難しいわけじゃない。難しいのは取り出したキャンディをいかにバレずに開封し、口に入れるか、だ。この作業にはマジシャンのような片手による精密動作性が求められる。
そしてレイはポケットから左手にキャンディを移すことに成功した。なぜ左手かというと、レイは右利きで、いままでの間落ち着きなく、精神の均衡を保つために、後頭部をかいたり、唇や鼻をなぞったりしていたのは右手だったからだ。右手のアクションにオヤジを注目させておいてその隙に服を破り、咳かくしゃみでもするフリをして、そんな作戦さ。
「どうだというのだ!!」
「それは、僕が彼女を愛してるかどうかってことですか?」
「ふざけるな!!」
「まあ、そう、でしょうねえ」
レイは何度目かの後頭部かきしだきアクションをとった。幸運なことに、思っていたより容易く、キャンディの包みを切り裂くことができた。開封した瞬間、下品な甘い香りがレイの鼻孔に到達した。まずい。バレてしまう。レイは屁でもこくしかないと、本気で思ったけど、出そうになかった。というよりも、身が出そうだった。そうだ。
レイはまだ朝の習慣であるところの大便を済ましてないことに気がついちゃった。
人間、何かに気がついちゃうと、それを実行できない状況であればあるほど、荒れるよね。精神。
レイはオヤジに排便を所望した。オヤジは相も変わらず「ふざけるな」と言ったが、
「ここでやってもいいんだぞ!!」
レイがはじめて見せた鬼気迫る表情、そして迫力とパワーに溢れたメッセージに気圧されたのか、オヤジは、「逃げるなよ」と言って、それを許した。
トイレに入り、レイは大便をした。左手がキャンディのせいでべったべたになっててさ。とても残念な気持ちにさせられたよ。追い詰められて急に思い立った行動の結果なんて、まあこんなもんでしょ。
もちろん大便だけでなく、キャンディを舐めたし、タバコも吸った。大便とキャンディとタバコの混じった臭気が、レイを冷静にさせたよ。置かれている状況を鑑みる。オヤジの言ってることはむちゃくちゃだ。このまま逃げるのも一手。警察に行くか。しかし、ひょっとしたら要塞の中に入るときくぐったあのチンケなアルミ扉は開けられないようになってるかもしれない。飛び越えるのは体力的に無理だろう。どうしておれは入ってくる時に扉の鍵の有無や、足場となりそうな道具などを確認しなかったのか。相手はむちゃくちゃな奴だ。何をされるかわかったもんじゃない。逃げるにしても、じゃあ神見はどうなる。どうやら家族以上に大事な“もの”らしいから、まさか傷つけたりはしないだろう。しかし、ああ、いま神見はどこにいる。何をしている。彼女次第、おれの行動は彼女次第なんだ。彼女に死ねと言われればおれは安心立命のうちに死ぬ。連れて行ってと言われたら、コンクリートの壁だってぶち破って、太陽光線をみせてやる、のに。
レイがトイレでなにやらぶつぶつと空想に励んでいると、鍵のかかった扉に手をかけた者がいた。ガチャとなった音に、レイは一瞬、さっと血の気が引いたよ。オヤジが来たのかって思ったからさ。
「ああ、すいません」
扉の前にいる男はそう言って、どうやらどっかに行ったらしい。そこそこ大きい家で、ましてや本部と称される場所だ、トイレがひとつなわけがないだろう。やましい奴ってのはだいたい専用のトイレを持ってるからね。別のトイレにでも行ったんだろう。
それにしても、「どっかで聴いたことある声だな」って、レイは換気扇に向かって甘苦い煙を吐きながら思ったよ。
オヤジの場所まで戻ると、オヤジはいなかった。これは逃げるチャンスかなと思ったけど、やめた。いざとなればオヤジの一匹ぐらい倒せるはずだ。そんな都合のいいことを思ったとき、さっきのトイレ男のことを思い出してげんなりした。
そんなことを思案していると、オヤジが現れた。相変わらずムカムカムカムカしてる。だけど、その後ろ姿、シャツの一部がスラックスから飛び出てる。
「もういい」
オヤジはそう言いながら胡座を組んだ。
「これだけ、はいかいいえで答えろ」
先程とはうってかわり、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、妙に落ち着いたふうでレイに語りかけた。
「お前はアノマニスか?」
アノマニスってなんのことだろう?、それを訊く前にレイは答えちゃった。だけど、それを訊いて説明されたあとでも、レイの答えは一緒だったろうけどね。
「アノマニスと呼ばれて振り向いたことはないですから、きっと違うでしょうねえ」
続