アノマニスからの脱却(1) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

アノマニスからの脱却(1)

あるいは彼は幸せだったのかもしれない。愛した女が満ち足りているという、その一点に於いては。



ニート歴も長くなると、ろくに口もきけない。しゃべる声などか細いし、妙に高い。頭の中で何度も何度も会話のパターンをシミュレーションするのだが、口から出る言葉といえば、「ああ」、しかないんだ。

篠田レイの場合、ニートで、少し対人恐怖症のケがあったんだよね。厳密に云うひきこもりではないのだけど、外に出ることは出るんだけど、赴く場所といえば行き着けのコンビニとファミレスぐらいで、金がないものだからそんな具合なんだよ。電車にも乗れない。

日々要するお金は、家族が寝静まった夜中に親のサイフから抜き取るんだ。500円。毎日500円。決まって500円。それ以上の金額は取らないし、それ以下の金額しか親のサイフに入ってないと、「死のう」、って思いが浮かんじゃうどうしようもないダメ人間なんだ。

これがタバコとファミレスのコーヒー代に消える。足りないんじゃないかと思われるかもしれないけど、ファミレスへは毎日行くわけではないんだ。行かなかった日のコーヒー代は、つもり貯金みたく、220円、次の日にキャリーオーバーされる。やりくりしちゃってさ。いい身分だろ?。月額1万5千円プラス諸費用の座敷わらしだよ。

レイの着ている服なんて、これがどうにも情けないというかなんというか、なんと、季節ごとに姉から送られてくる義兄のお古なんだよ。サイズが同じなんだ。だからまあ、それなりにいっぱしの恰好はしているんだけど、なんだかなあ。

恰好といえば髪の毛。髪を切る金なんてないし、長時間他人と話すなんて苦行に他ならないレイのことだから、レイは自分で髪を切るんだ。なに、むつかしいことじゃないよ。ある程度伸ばしっ放しにして、ロングヘアーの長さになったら、前髪と後ろ髪を含めた両サイドをヘアゴムでまとめ、そのゴムの上をハサミでもって一直線にぶったぎる。そしてちょちょいと整える。それだけ。そんなもんでも結構さまになるもんでね。まあレイはもともと、そこそこ良い顔立ちをしているから、そのせいかもしれないけど。一度、長くなった髪を金色に染めて、伸びた黒髪部分を切る長さの目安にしたこともあった。数ヶ月に及ぶ遠大な計画は一応成功したんだけど、ね、変な性格してるだろ?。

レイはそんな身分にも関わらずタバコを吸いやがるんだ。それは好きな作家に影響されたってこともあるにはあるんだけど、一番の理由は、タバコを吸ったら早く死ねるんじゃないか、ってことなんだ。消極的自殺。まあ、甘ったるい行動原理だよ。そのくせ、決して死にたくはないんだからさ。

レイはファミレスに行くと、おかわり自由のコーヒーを頼んで、カバンからノートとペンを出す。はじめの頃はえんぴつだったけど、消しゴムのカスが迷惑だからね、100円のボールペンにした。ノートを広げ何をしているのかというと、学校の授業中にやる暇つぶしと一緒でさ、他愛ない落書きだよ。イラストとか、その日思ったおもしろいこととか、ポエムとか、どれもこれもへたくそでさ。笑っちゃうよ。

そのファミレスの店員には、自分は漫画の原作者だ、ということにしてる。別にレイがおばさんか女子高生かという極端な人種に分けられたウェイター達にそう宣言したわけじゃないよ。はじめの頃はばっさりと髪を切った次の日なんかは業務外のコミュニケーションを求められたりしたけど、「はあ」「ああ」「はい」の三拍子でさ。そのうちほっとかれるようになった。でも、週5で2、3時間もノートを開いては黙々と何か書き連ねている奴なんて、怪しすぎるだろ?。だからレイはそう設定した。ニートだと思われたくはないからだよ。世に云うところの「作家」でもよかったのだけれど、漫画の原作者、の方が幾分リアリティがあった。一般にはよくわからない職業だからね。言い訳するにはそっちの方が優れている。ま、あくまで誰にも言ってない設定の話なんだけど。

実はレイは本当は、“話しかけられたい”んだけどね。根は明るい奴だからさ。でも、そんなこと微塵もお首にださず、ポリポリとひとり、指定席でタバコを吸いながらノートにくだらないことを書いている。店員達に陰で、「ニート」ってあだ名で呼ばれながらね。「ニート」と呼ばれるニートが心の中で「おれは漫画原作者だ」と言っている図。笑っちゃうよ。

篠田レイのそんな生活が一変したのは、今年の春だった。ああ20XX年にしとこっか。いや、201X年にしとこう。

なにも書きためたストーリーを出版社に送ったら採用、100万部の大ヒット!、ていう夢物語じゃなくてさ。至って、至ってシンプルな理由。極々シンプルな理由。そう、篠田レイは恋をしたんだ。そこいらに転がってそうな普遍的な恋をさ。恋の力は偉大だよ。いや、恋は人を狂わす、とも言うね。まあなんでもいいよ。恋は人の行動に大きく作用する薬だってことなんて、みんな知ってるからさ。

相手はいつもタバコを買っているコンビニに、新しく入った女の子だった。そのコンビニは昔酒屋でさ。いつの間にかコンビニになってた。まあその名残か、今もちょっと変わったコンビニでさ。まあそんなことはどうでもいいか。女の子の名前は野毛木神見(のげきかなみ)。小さくて、声はかわいくない方向に少し変だったけど、世間一般の美人の定義からは外れた娘だったけど、レイにとっては、レイから見れば、とってもかわいい娘。ど真ん中ストレートのタイプだった。レイは結構良い顔立ちしてるからね。そのせいかモデルタイプの女にはまったく興味なかった。遺伝子のいたずらかな。別に彼女が超絶ブサイクなわけじゃないよ。彼女はとてもかわいい娘だよ。ただ、探せばそこいらにいるであろう娘だけどね。

初めて彼女を見た時のレイの狼狽っぷりったらなかったよ。レイはロングピースを吸ってるんだけど、レイが口頭で、各タバコに割り当てられた番号じゃなく、商品名を言うと、彼女はタバコのことなんてまだよくわからなかったんだろう、ショートピースを持ってきたんだ。レイは彼女に釘付けになってたし、彼女に文句をつけたくなかったからさ。黙ってそれを受け取った。こう書くと少しダンディな感じが醸し出されてしまうけど、ダンディな感じが醸し出されてしまうけど、レイの思うにそれは少しのダンディズムなんだけど、ま、実際はみなさんの予想通り、ショートピースを出されたレイは、
「え?」
「はい?」
「あの」
「はあ」
「いえ、なんでも」
「ありがとうございましたぁ」
だったんだよ。たぶん、ピー缶渡されても受け取っただろうね。あ、金が足りなかったかもしれないけど。

そのあと、初めて吸うフィルターのついてない両切りタバコに悪戦苦闘しながら、レイはファミレスでノートを広げた。でもなにも書けない。いつもは、220円の“元”を取ろうと、なにかひとつぐらいは思いついて仕事を達成していたんだけど、なにも書けないんだ。思いつく論理的なことといえば、明日からタバコをショートピースに切り替えるかどうか、ぐらいでさ。頭に浮かぶのは漠然としたイメージ、あの娘の顔、あの娘の仕草、あの娘の声、まあ美人の顔よりも特徴ある顔の人の方が印象に残るよね。美人は3日で飽きるとも言うしさ。不気味の谷現象って言うの?。ラッキーなことより不幸なことの方が深く心に刻まれて離れないみたいにさ。いままで体験したことない高揚感、彼女が店内を腕を腰につけかかとをすりながらパタパタと小走りしたら思わず飛びついてしまいそうだ、赤い糸。

レイは自分の小指に赤い糸など結びついていないこと、知ってた。ニートだし、半分ひきこもりだしさ。でも、恋は人を狂わす、まさしくその時のレイは狂わされていたね、いつもより短い時間でファミレスを出たレイはその足で履歴書を買ったんだから。赤い糸がないならおれが一から紡いでやる、なんてさ。当たり前っちゃ当たり前のことなんだけど、それはレイがニートになってから、実に5年ぶりの自発的な行動だったよ。5年前、高校を辞めた時以来のことだった。

そのあと、悪い虫がつくのは許せん、とばかりに、レイは彼女に対しストーカーまがいの、いや、明然たるストーカー行為を働いてたりしてたけど、彼女、まあ、あれだから、そんなに競争倍率は高くないんだ。ニートからフリーターに昇格したレイと彼女が付き合い始めるのに、邪魔する者はいなかったよ。もちろん、レイの家族は喜んださ。彼女ができたなんて家族に言うレイじゃないけど、それがわからないほど人間ってバカじゃないからね。

彼女は高校を卒業して、コンビニのバイトを始めた。なんでも、“家業”があるらしい、それは聞かされる前からレイも知ってたんだけど、知ってはいたんだけどさ、知ってはいたんだ、だけど、さ。いわば彼女はモラトリアム期にレイと知り合ったわけだ。彼女は処女だった。

そのことをレイは一度も後悔したことはなかったよ。彼女はどうだったんだろうね。今となっては、知る由もないね。