宅配屋と喫茶店(19) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

宅配屋と喫茶店(19)

「引き留めても無駄です。ではお世話になりました」
「おいちょっと」
チン太の母は勢いよく陽が赤くなり始めた町に出ていった。

「おい、お前の母ちゃん出ていっちゃったぞ」
「まあ、今の様子だと、帰ってくるのは夕飯のあとかな。何も持ってってないからね」
「けっ、ガキがなに大人ぶってんだ」
「父さんも少しは母さんに気を遣いなよ」
「大人の話に首をつっこんでんじゃねえ。…………おい、ケン太」
「なに?」
「お前あれだ、あれだよ。今晩の夕飯のおかず買ってこい」
「………ったく」
「なにしたり顔してやがんだよてめえは。親があれだあ、てめえんとこのガキを小間につかって何がわりいんだ。それとも夕飯のおかずいらねえってのか?、なら話は別だ」
「しつこいなあ、わかったから、早く金くれよ」

おかずを買うにしては少し多めの駄賃を渡されたチン太は、ため息をつくと母を追った。

「……………いち坊よ」
「は、はい」
「仕返しすんなら、ひとつ策があるぞ」
「はあ、ですけど」
「ああみなまで言うな。あれだろ?、仕返しして、また仕返しされたら困るって話だろ?」
「はい」
「大丈夫、これがうまくいけゃお前、そんなことはでえじょうぶだ」
「はあ、ではその策とは」
「ふむ唐の昔から、三十六計逃げるに如かず、というな」
「はあ、しかしこのまま尻尾巻いて逃げるってのも腹の虫が」
「なに、ただ逃げるんじゃねえ。こうすんだよ。いいか…………」



「ただいま」
しばらくしてチン太がひとり帰ってきた。
「おう、けえったな。ん?。おいおかずはどうした」
「晩のおかずは、“刈り取る前の米”だって」
「けっ、くだらねえこと言いやがってあのやろう。そんならおれは後家倒しの一法だってんだ」
チン太の父親は苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。
「刈り取る前の米?」
いっちゃんがチン太に小さく耳打ちすると、チン太は、
「実るほど頭を垂れる稲穂かな、だよ」
「なるほど、難しい条件だな」
「そんなことはないよ。後家倒しだなんだ言ってるけど、こうなると毎回」
チン太がなにかを言いかけたとき、チン太の父親が、「ガキは二階に上がってろ」と言って、ふたりを喫茶店から追い出した。


「どうしたのさっきからにやついて」
再び六畳間に戻ったふたりだったが、なにやらいっちゃんはにやにやとしていた。
「ふふん、ちょっとな。光明がさしたんだ。仕返しのメドがついたぜ」
それを聞いたチン太は、はっ、と思い至るところがあり、
「あ、親父になにか吹き込まれたんでしょ。あまりあてにしない方がいいよ」
と、言った。
「まあ、へへ、なんとかなりそうだ」


次の日の土曜日に、いっちゃんはチン太の家を出て家に帰った。そして次の月曜日から、いっちゃんは学校に復帰した。上級生から受けた傷跡はまだまだ色濃く残っていたが、それよりも新しい青タンが顔のところどころに出来て目立っていた。
「親父にな。しょうがねえよ」
いっちゃんはそう言って、笑った。親父に殴られるなんて、いっちゃんにとっていつものことだろうから、大したことではない。
それよりもなによりも、あの、とても自分の父親が思いついたとは思えない作戦の成功を思うと、いっちゃんは笑わずにはいられないのだろう、チン太は思った。
復帰したいっちゃんは早速、例の上級生から呼び出しがかかる。
同級生は皆、いっちゃんがまたボコボコにされるだろうと井戸端会議に花を咲かせたが、教室に戻ってきたいっちゃんの顔に新しい傷はなかった。

あいつはクップクしたんだ。

クラスのみんなは口々にそう言った。自分達だってクップクしているくせに、自分達のことは棚に上げ、いっちゃんを抗えない現実からくる濛々と立ち込めるやり場のない怒りのスケープゴートに仕立て上げた。事実、いっちゃんは上級生達に土下座をして難を逃れていた。そのこともすぐに皆に知れ渡り、いっちゃんの株は暴落の一途だった。
近くにいると上級生に目を付けられると、いっちゃんと共謀して上級生を襲った仲間さえ、いっちゃんに近づくことはなくなった。いっちゃんはやり返されたとき、ついに顔が割れていない仲間を上級生達に売らなかったというのに。
それを作戦遂行上、そのことは覚悟していたいっちゃんだが、やはり淋しいと見えて、チン太とつるむようになった。
チン太にとって、それは大きなプラスになった。
チン太はともすれば、悪い奴らの巣窟であるこの学校において、周囲にいじめられるだろう要因を持った奴だったが、またちょこちょことちょっかいは出されていたが、いっちゃんとつるんでいるとなると話は違った。いっちゃんといれば紅海を割ったモーゼのごとく、皆が皆道をあけ、距離をとるのだから、それはとても都合が良かったし、なによりもいっちゃんと話しているととても楽しかった。
いっちゃんはチン太が思っていたよりも粗暴ではなかったし、「つまらねえよりは楽しい方がいいだろ。どんな時でも、少しでも、だ」と、口癖のように、チン太がため息をつくと必ず、言った。そして、まるで、宵越しの銭は持たない、を地で行くように、刹那的楽観な感性の持ち主だった。それは、時と場所を選ばずうじうじしてしまうチン太にとって、はじめて出会うタイプの人間だった。
その日が来るまで、いっちゃんは例の上級生達となるべく顔をあわさないようにした。廊下ですれ違うときも、さっと深く頭を垂れて、そのまま大名行列が通り過ぎるのを待つ町民のように、上級生達が行き過ぎるのを待った。
授業が終わればチン太を連れて、上級生達に捕まらないよう、そそくさと学校をあとにした。不良達も恐れる屈強な体育教師と一緒になって学校の最寄り駅まで行った日もあった。それらの行動を同級生達は蔑みの目で見た。軽蔑しきった目で見た。いっちゃんは完全に、学校内ヒエラルキーの最下層の住人になった。弱肉強食の社会において、中学時代の数々の悪行や上級生襲撃という名立ての印籠ももはや錆びついて、その歯牙にかかるのも秒読みになっていた。

そうして、いっちゃんが学校に復帰してから二週間ばかりが過ぎ、ついにその日はきた。いっちゃんが仕返しに出た日だ。


「その日は祭りでよ。三社よ三社。町内ごとに神輿がでんだよ。でな、これはうちの親父があいつに教えたんだが、うちの町内に戦争で体を悪くして、寝たきりになったオヤジがいたんだよ。うん。そのオヤジはなんでか知らねえが顔が広くてな。神輿を担ぐアレの親分がよ。その来年も生きてるかわからねえオヤジに最後の神輿を見せてやろうと神輿の通る道筋をいつもと変えたんだな。あれだよ、マラソンのおまけが出来たいきさつみたいなもんよ。そんでな。寝たきりのオヤジってのは“二階”で寝たきりなんだよ。そっから動かせねえってんで、“特別に”二階から神輿を見下ろすことを許されたんだな。なんせ神輿を見下ろすってのは神をもおそれぬ御法度だ。それを破っちまった日には、殴られたって文句は言えねえ」
マスターはもはや祐平に何を言いたかったのかを忘れ、あの日に戻ったよう悦に入って朗々と語り続けた。祐平はただじっとその話を聞いていた。忌み嫌う父親の若い頃の話を聞いたことがなく、興味が沸いたこともあるのだが、ここまできて話を止めるのもおかしいな、また、どう話を止めればいいのかと、ついさっきまでの怒声を張り上げた祐平とは別人のようになって空気を読んでいるからだ。


上級生達をその場に呼び出す下準備は至ってシンプルだった。なんせ、バカばかりだったものだから、近頃大人しくなった下級生に、いっちゃんからではない、に決闘だと呼び出されても、町中にある取り壊しが決まった小さな廃ビルの元社交ダンス教室が決闘の場であることも、誰も、おかしい、とは思わなかった。おかしい、と思わなかったというのは言うに過ぎたが、訝しみ方が、以前暗闇の中返り討ちにされたこともあり、向こうにまた闇討ちされてはたまらないと、懐中電灯の電池確認等まるでキャンプに出かけるような方向に重きを置いた素敵なバカ達だった。そのビルは大通りと路地裏に挟まれていた。そして裏に面するその路地裏こそ、変更された神輿が通るルートだ。

日曜日の昼下がり、遠雷のように祭り囃子が轟く下町の路地裏に、今も昔もとち狂ったとしか思えない、祭り向きといえばそうであるような出で立ちの高校生数人がRPGゲームの最序盤で手にはいるような装備を身につけ現れた。
祭りの日に草野球たあ偏屈なやつらだ、と、思ったか思わずか、町の住人は何かを威嚇するような出で立ちの彼らを奇異の目で見たが、しかし派手な出で立ちで威嚇しているという進化を遂げた生物は弱肉強食の自然界に於いて主にそれで強者から身を守ろうとする弱者だということを彼らは知っているのだろうか?、その中のひとりに、休みだというのに律儀なというか後先考えずというかなんというかバカというか、あの学校の学ランを着ている奴がいて、触らぬバカにたたりなし、と、口をつむいだ。そんなことより祭りだ祭りだ。
廃ビルに入った彼らと、近づく神輿を遠くから見ていた、担ぎ手と同じく祭り装束のいっちゃんは、静かに“見張り台”をあとにした。傍らにいた同じく祭り装束のチン太はいっちゃんの背中が笑っているように見えた。
去り際にいっちゃんは、
「ちゃんと表をふさぐんだぞ」
と、チン太に言い残した。

あとは楽チン。路地裏からあらかじめ開けて置いた二階の窓に向かって叫び、こちらに上級生を集め、そしたら、近づいた神輿の先方を担ぐ親分に聞こえるように、「あそこから神輿を見てる奴がいる」と、指差し、親分を焚き付ける。べらんめえ、と意気を上げた親分を見て、ようやく、はめられた、と気づいた上級生は這う這うの体で廃ビルから退散せんとするが、残念、表口には法被姿の茹で上がったタコのように上気した男が数人で出口を封鎖している、それはチン太とチン太の父親とその友人達だ、それを親分の手下と勘違いを起こした上級生達は、ならば裏口からと、走り出したがバカの壁。外に出たのはいいけれど、そこにいたのは鬼より怖い親分と、それを取り囲む血の気の多い若い衆だった。
もはやこれまで、上級生達の金玉はさぞ縮みあがったことだろう。
「神輿を上から覗くバカがどこにいんだ!」
びくっ、と上級生達の体を震わせた一喝の声の主は親分、ではなくいっちゃんだった。もちろん、この総括の主人公は自分でなくては腹の虫がおさまらない。
「てめえら何考えてやがんだ。そこになおりやがれ!」
さすがにひとりで上級生達をまとめて相手にはできない。古臭い啖呵をきったいっちゃんは、神輿を取り巻く大衆の真ん中で、上級生達の中のリーダー格をボコボコに、褌姿の充分に可動範囲のあるわがままな脚でそいつを踏んだり蹴ったりし始めた。周りの上級生達はそれを止めることができない。ヘビに睨まれたカエルのよう、でっかいヘビに睨まれているからだ。ここでいっちゃんに手を出したら、周りの本物によりひどく扱われることは目に見えている。御法度をおかしてしまったのだ。
「一昨日きやがれってんだ!」
リーダー格を思う存分にいたぶったいっちゃんがそう言うと、失神したリーダー格を頃合いとみた仲間が肩に担いだ。その仲間の尻を蹴り飛ばすといっちゃんは、
「汚ねえ神輿見せんじゃねえ」
と、言った。火事と喧嘩は江戸の華、いっちゃんが見せた見事な裁きに、観衆は、わあっと沸いた。
この喧嘩は私怨ではなく、あくまで、不作法を起こした人間への処罰、だ。上級生達にはやられた仕返しをする口実がない。そんなもの構わないとこの件の恨みからいっちゃんに手を出せば、粋、じゃない。それが知れた日にはこの現場にいて全てを見ていた粋な親分に何をされるかわかったもんじゃない。いっちゃんは見事やり逃げを果たしたのだ。

学校が始まると、いっちゃんは素知らぬ顔で、その上級生達に以前と変わらぬ平身低頭っぷりだが、上級生達にとってみれば、いささか居心地が悪い。その居心地の悪い雰囲気が、いつしか下級生にも伝わり、また風聞は往々にして大袈裟に伝わるものだ、いっちゃんはまた一目置かれることになった。