宅配屋と喫茶店(8) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

宅配屋と喫茶店(8)

「先生、まさか」
「ええ、もう、ちょっと、思った以上に。朝、早かったか…ら…」
(なに!?。トイレか!?。)
相変わらずジュディは表情も変えずじっと前をみていたが、高窪が住宅街の閑散とした車道にトラックを停めたと同時に、トイレの扉の前で失敗してしまう時のよう、雪山で遭難し救助された瞬間に意識不明となる時のよう、ジュディの口から、ぴゅるっ、とテッポウウオの水鉄砲のごとく、結んだ唇により圧のかかった微量の液体が飛び出したのを祐平はみた。
とっさに口を手でふさぎ、ほっぺをふくらますジュディ。
「だ」
祐平と梨田が、大丈夫ですか、と声をかけようとしたその時、ゴクリ、とジュディの喉仏が上下し、ふくらんだほっぺたはなくなった。
……………。
「さあ、現場に急ぎましょう」
きらりと輝く瞳で、ジュディは力強く前を向いた。
…………。無言でトラックは走り出した。ジュディは乗り物に弱かった。

人間、何かを知ってしまったがために余計な苦しみに見舞われることが多々ある。知らぬが仏とはよくいったものだ。
祐平は、ジュディがわずかに漏らし、幸い伝票などにはかからなかったがフロントガラスに縦線を引いた嘔吐物をどのタイミングで処理するのか気になって仕方なかった。そして、これからずっとジュディの体調を気にかける運転をしないといけないと思いに縛られると、普段から荷物を気にした安全運転をしているのだが、とても嫌な気持ちになった。

配達のはじめは担当エリアの端にあるマンション「中央ハイツ」からスタートだ。端にあるからここからスタートするわけではない。物事には効率のいいやり方というものがある、と言いたいところだが、祐平はここから回れと先輩に言われたからここから回るのだ。そのことに特に疑問を抱かず、ここからはじめることが一番効率がいいと先達が経験から知ったのだろう、祐平はそう思い、納得している。
人は往々にして他人から聞いた情報を鵜呑みにし、検証や自己対話を行わず、それがよいのだ、と盲信することがある。
玉子は半熟の方がいい、チャーハンはパラパラじゃないとダメだ、あっちの道を行った方が早い、こっちで買った方が得だ、こうした方が稼げる等々、
そんなことをいつも通りしていたら、ある日知り合いなど、特に自分のしていることと関係しない人物から、それはこうした方がいい、と言われると、たとえ相手の言うことが絶対的に正しくても自己のすべてが否定され何かが台無しになった気になり、多かれ少なかれムカッとくるのが人間というやつだ。ゲシュタルト崩壊からくるアイデンティティの怒りだ。よかれと思って部屋の掃除をしたら嫁と喧嘩になったなどよくある話だ。ま、これは夫の掃除スキルが低く、結果的にまた掃除をしなければならなくなるという二度手間に対しての怒りもあるが。
誰かが非効率、非生産的行動、をしているのを気にとめ、よかれと思い、こうした方がいいと進言しようとするならば、せいぜい、ものの言い方には気を遣うことだ。下手をすればムカッとキレた相手に殺されるからである。

「ここから始めるのには何か理由があるのですか?」
吐いたからか地獄空間から解放されたからか、ジュディの表情が豊かになった。
「いつものことですよ。理由という理由は…」
祐平は考えたこともなく考えたくもないことを少し考えるはめになった。
「あら、そうなの?。ふうん、案外てきとーなのね。もっと作業効率を」
ジュディのものいいに少しだがムカッときた祐平はジュディの言葉を遮り、
「まあ強いて言えば、ここの住人は朝一番に宅配が回るということが習慣として存在するからですかね」
と、言い訳をした。ジュディに対して、それと己に対しての言い訳だった。とっさに口から出た言葉だが、それはジュディにぐうの音も出させない言い訳だと祐平思った
「へえ、なるほどねえ。確かに毎回同じ時間に来るとわかっていたらいいですねえ」
何を考えているのかわからない言い方でそう言うとジュディは、歳に似合わずジャンパーの裾を手のひらで丸め、ぴょこぴょこと可愛げに小走りしトラックの後ろへと向かった。
宅配のやり方は一通り所長から聞いたという。
「じゃあ、おふたりは台車を使ってください」
祐平がそう言って台車を引っぱり出すと、梨田が、
「高窪さんはどうされるんですか?」
と、訊いた。
「このマンションは宅配物が多いですからね、僕はトラックとその台車を軸に遊撃します」
「なるほど」
祐平はてきぱきと台車に宅配物を積んだ。
「あら、私がしますよ」
(お前が積んだらめちゃくちゃになるだろ!。こっちはなるだけ伝票の順番通りになるよう積んでんだ!)
「まあ、はじめはサービスということで。ここはちょっと面倒なんで」

「中央ハイツ」のような建物は配達員からすれば実に面倒くさいものである。祐平は特にこの担当エリアの端にそびえ立つこのちょっとした豪華客船のようないでたちのコの字型マンションが嫌いだった。ついでに何ヶ所も回れるからいいじゃないかと思われるかもしれないが、それは違う。マンションはきつい。営業所近くの団地が一番稼げる、と記したが、きついのも事実。ましてやプロドライバーは配達個数で給料をもらっているわけじゃない。なにがきついのかというと、色々あるのだがまずはリズムが崩されることだろう。配達にはリズムがあるのだ。
宅配物を持って車から降り小走りで客の家の前に行きチャイムを押してハンコをポンともらってさよならを言ってまた小走りで車に戻り次の個宅へ。これが祐平の理想とするリズムである。客からの集荷の知らせも届かずに何軒も連続でこの宅配が成功すると、疲れなど感じずノリノリになって、あっという間に時間が過ぎて行く。車の運転中に赤信号につかまらなかった、という感覚に似ているであろうか。
そして赤信号とはこの朝一番に訪れる中央ハイツだ。それも担当エリア中最大の赤信号である。開かずの踏切とでもいおうか。
このコの字型マンションは広く、しかしエレベーターの基数が少ない。建物の玄関に二基しかない。広いということは当然、比例して宅配物の数が多い。台車に乗せて運ぶのだが、まずこの台車をマンション内で押し歩くという行為が大変面倒くさい。エレベーターの段差につまづいて荷物が落っこちて手間取ったりするし、宅配物の破損を防ぐために宅配順番ではなく、もちろんある程度は計算しているが、重く頑丈なものから下に置くために、宅配するたびに台車の上をかき回すことになる。当然のことながら、不在の宅配物も出てくるのでさらに面倒がくさくなる。台車で階段は使えないので一階一階エレベーターを使う。当たり前だが、台車をどこかに置き去りにし、何個か手に持ち階段で上下のフロアを行き来するなどしてはならない。宅配物が盗まれたら目も当てられない。朝一番の宅配物の数は台車の積載可能面積を大きく超過する。ということは何度か建物と車を往復することになり、エレベーター到着待ちにイライラしてくる。こうなるとリズムもへったくれもないのだ。

そんなだから普段祐平は沖田に中央ハイツの大多数を任し、時間指定宅配などの他をあたるのだが、今日はジュディが同乗している。作業時間が読めない。だから普段と逆で沖田に楽な方を任せ、その代わりこの嫌な作業を請け負った。
宅配物はジュディ用と祐平用とがある。仕分けの時に祐平は、マンションをふたりに任し、その間に別のところをいくつか回ろうかと考えていた。それは助手がついた時の常套手段だったが、やめた。なにか問題があったら、いや、ジュディが問題を起こしたら、ややこしくなるだろうことは目に見えていたからだ。
言うまでもないことだが、今台車に乗っている宅配物のなかにも時間指定宅配はある。

さあ、ようやく宅配開始だ。宅配物を手で押さえながら台車を押すジュディ。乗り切らなかった大量にみかんが入ったダンボールの上に同じく乗り切らなかった小物を積んで歩く祐平。時折写真を撮ったりする不在票の束と伝票の束と臨時ドライバー用の機械、通称「ミニミニちゃん」を持つ梨田。
エレベーターホールでエレベーターの到着を待つ時間とは、無言になるのを避けるという神の与えた試練の時間だ。乗ってしまえば阿呆のように過ぎ行く階数表示を見つめていればいい。

「ああっと、山下さん、不在票の書き方はわかりますか?」
「ええ、ばっちり」
(そりゃそうか。猿以下の仕事なんだもんな。)
臨時ドライバーは不在票に支給された携帯電話の番号以外の、訪れた時刻、宅配物の管理番号、自身の名字、相手の名前を手書きしなければならない。これがまた不在の度にいちいち手間がかかる作業になる。プロは電気メーターを検針にきたおばさんのように手持ちの機械からそれら情報をシールにプリントアウトして不在票に貼るだけだ。この中央ハイツの宅配物はややこしくならないようすべてジュディ担当にしたので客が不在の場合祐平も山下の名で手書きをする。この中央ハイツの場合あくまで“独立した”臨時ドライバーであるジュディの手伝いに徹する形だ。本当に二度手間である。致命的とさえいえる程だ。

「では、とりあえずはじめの階は同行しますが、さっき言ったように以降は別行動でお願いします」
「ええ」
…………。
(おら、なんか言え梨田。)
「あの」
(よし梨田。今ならなんでも答えちゃうぜ!。)
「はい」
「高窪さんとはぐれたらどうすればいいですか?」
(子供か梨田てめえ!。はぐれたらって!。迷路でも人類未踏の山でもなくてマンションだぞここ!。配り回れよ!。)
「マンション内にいる限りは僕が見つけますから、ほらこのマンションならお互いちょっと外に目を向けたらすぐに見つかりますから。僕のことは気にせずに回っててください。僕が急な用事ができてここから離れることがあっても、そのときはそのときどきで声をかけますから」
「そうですか、ケータイもありますしね」
ジュディも呆れた様子で梨田の顔をみていた。

到着したエレベーターに乗り、祐平は最上階のボタンを押した。

「やっぱり上から攻めるんですか?」
(梨田よ。今はただ光る階数表示をみていればいいんだ。)
「はあ、そうですけど」
「いやあ、営業と同じですね。営業回りも上から攻めるんですよ。なんでも、昇っていくより降る方が楽だとか」
「へえ、一緒ですね」
聞いたばかりであろう豆知識を嬉しそうに語った梨田に、祐平ははじめて聞いたような口ぶりでこたえてやった。

最上階の12階に到着した時、住人である齢50ほどのゴミ袋を抱えたおばさんと鉢合わせた。
「あら高窪くん、おはよう」
「おはようございます」
「あたしの荷物ある?」
「ありますよ」
「なにがきた?」
「中野さんのはこれです」
そう言って祐平は抱えているみかんの入ったダンボールに目配せした。
「あらやだ、そんな重いの持って」
おばさんがそう言うと、ジュディの耳がぴくりと動いた。
「じゃあ今受け取るよ」
「すいません。ありがたいです」
「なによ、いいっていいって」
後ろ手でこいこいと呼びながらすたすたとおばさんは自宅に向かって歩きだした。
「梨田さん、えっと、上から三枚目の伝票ください。中野さんです。あ、あと、ちょっとついでに、よろしければ上の荷物持っててください」

おばさん宅から足早に戻ってきた祐平はみかんをみっつ手にしていた。ひとり一個だ。
ジュディと梨田は、早速、といった具合に、ほお、と吐息をもらし、橙色に影がさすみかんを見つめた。

「まあ、こんな感じです。ではいきましょう」