怖い話 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

怖い話

あれは僕が夏休みに旅行へ出かけた東南アジアのある国から一週間ぶりに帰って来た時のこと。僕の部屋は古い木造建築アパートの二階。ああ疲れた、なんて思いながら一週間ぶりにカギを開けると、部屋の中から、むわあん、とする蒸し暑いイヤな空気が流れ出て来た。蒸し暑いだけじゃなく、どこかカビくさかった。部屋の中で何か腐ったのか?。僕はこれからのことを思うと疲れた体がもっと疲れた。

部屋に入り無造作に荷物を置くと、すぐさまカーテンを開け、窓を開放した。僕の部屋のクーラーはぶっ壊れていて、夏のあいだは目覚まし時計いらずだった。朝気温が上がり始めるととてもとても寝ていられないから。

部屋の中は外より暑くて、汗が噴き出してきた。と同時に、旅の疲れが部屋にたどり着いた安堵から一気に噴出したのか体がすごくだるくなった。部屋の臭いの原因探求と掃除を後回しにして、僕は水を浴びようと浴室に向かった。浴室に入ると、僕はまたイヤな気持ちになった。浴室内はなぜか壁から床から水浸しだったからだ。むわあん、と立ち込める蒸気、異臭。どこか甘ったるく粘りつく、磯辺のような臭い。その時僕はのちのち起こる出来事なんて知らないものだから、「臭いの原因はこれのせいか」なんて途方にくれながらも今思えば楽天的に考え、シャワーから水を出した。とにかく汗とだるさを冷ましたかった。シャワーの水は出始めしばらく赤見がかっていたけど、赤サビのせいだと思った。

シャワーを浴び終えた時、携帯電話が鳴った。僕の帰国を知った休みを持て余していた近くに住む友人からだった。まだおやつの時間も過ぎてない。お茶の誘いを断る理由は体がだるいだけでは足りない。髪も満足に乾かさず、クローゼットからくたびれた服を取り出して僕は友人の待つファミレスに向かった。

ファミレスに着き友人と落ち会う。よお、と僕が声をかけたその時の友人の顔を忘れられない。彼はまるで人面犬にでも話しかけられたみたいにザ・ベスト・オブ・ぎょっ、っとした顔で僕を見つめると、「なにがあった?」と訊いてきた。わけもわからず僕は「は?」と応えた。

「そ、そうだなまず、まずは、お前、びしょ濡れじゃないか」

友人がそう指摘した。

「ああ、シャワー浴びてる最中に呼び出されたからな」

僕は少し話を誇張した。僕は席に座った。

「なんだよ。久しぶりに会う友人に、しかも髪を乾かす時間をはしょってまでてめえのために駆けつけた友人に向かって開口一番、なにがあった、だなんて。もっと他に気の利いた言葉知らねえのか」

「ああ、まあ、しかしだな」

「しかしなんだよ」

「お前、なにかあったのか?」

「なんもねえよ」

「本当になにもなかったのか?」

「だから、なんだってんだよ。お前如きがもったいをぶつな。この変態スパンキング野郎め!」

ファミレス中に響き渡る僕の発した性的単語により、ファミレスの空気が一度下がった気がした。

「…まあ、元気そうではあるな」

友人は少し安心したように言い、

「お前、鏡を見たか?」

と続けた。

「鏡?」

僕は部屋を出る前に鏡を見ていたけど、ちょっと陽に焼けたかなと思うくらいで特になにも感ずることはなかった。

「お前、すごくぼんやりしてるぞ」

友人はそう言ったが、僕に意味は伝わらなかった。伝わらないながらも、

「そりゃまあ、疲れてんだよ」

と返した。

この時、注文を聞きにきたおばさんウェイトレスが、友人と同じように僕を見てぎょっとなったが、仕事は仕事、僕はドリンクバーを注文した。

「お前、ちょっと鏡見てこいよ。変だよお前」

友人に促され、釈然としないまま僕はトイレに向かった。鏡を見た。その瞬間僕も友人やウェイトレスみたくぎょっとした。鏡に映る自分は友人の言うとおり、ぼんやりしていたからだ!!!!

ま、ぼんやりしていたと書いても伝わらないことは経験している。鏡に映し出された僕の顔は、ぼんやりしていたのだ!!!!

二度手間!!

冗談(?)はさておき、僕の顔はひどく青白く、唇はプール上がりみたく紫で、全体的にやたら痩けていた。痩けてはいたが目の下の袋、通称エロタンクだけはぷっくりと膨れていた。それでいて髪はずぶ濡れなのだ。なぜ友人がぼんやりと評したのかはわからないのだが(わからないなら使うな!)、僕を見てぎょっとするのもむべなるかなといった具合だった。

なんじゃこりゃ。部屋を出てくる時は確かに普通だったはずなのに。そう愕然としながらも一度トイレに入った性、僕は生理現象に襲われ、用をたした。病気か?寄生虫か?食中毒か?はたまたあのシャワーに変な菌が……帰国脳は色々原因を探る。手を洗ってる最中も鏡をじっと見る。その時、トイレ入口の扉が開かれ後ろから東南アジア系のしなしなになったTシャツを着た幼い子供が入ってきた。その子供と僕は鏡越しに目があった。子供は僕を見て、にっ、と小さく笑い、個室に消えていった。このあたりはフィリピーナが多いので、この時は別段気にしなかったのだが…………。

「わかったろ?病院に行けよ」

席に着くと友人に言われた。

「うーん、でも、異常はないぜ?」

「いや、異常出てるだろ」

「いやいや、体のどっかが痛いとか、下痢だとか、そんなことはないぜ?熱も感じないし」

「これから起こるんだよ」

「怖いこと言うなよ」

「めんどくさがってんじゃねえよ」

「じゃあさ、じゃあ、お前が病院代払えよ」

「なんでそうなんだよ!」

「………だろ?」

「だろ?じゃねえよ。意味わかんねーし」

そう言いつつ友人は席を立った。僕は少年のことを思い出し、

「大なら先客が居たぞ」

と言った。男子トイレの個室はひとつだった。彼は腰を下ろし、トイレの方を睨んだ。

彼のうんこを無視し、旅の思い出とか、他愛のない話を続けていた。が、うんこを抱える彼の肛門は悲鳴をあげていた。

「まだかよ遅えな」

「まだおれが帰ってきてから五分も経ってないだろ」

「はあ?」

「いやな、おれが用をたしたあとに、子供が個室に入ったから」

「えっ?」

「なに?」

「お前先客がいるって言ったじゃん」

「ああ、だからその子供がな、お前はバカか?」

「いや、お前が入ってるあいだ、誰もトイレに行ってねえぜ?先客がいるって言ったからお前が入る前から誰か入っていると思ったんだが」

僕達の座る席はトイレに繋がる廊下に面していて、トイレに行く人は僕達の前を通らなければならない。確かに、誰が入ったのかわかる。ということはつまり、誰もトイレから出てきていないこともわかる。子供は出てきていない。

「子供だったから見落としたんだろ」

「うむ」

と自分を納得させるようにうなずいたあと友人は、

「いいや、限界だ。出すね」

と、バイツァーダストを発動させるようなセリフを言ってトイレに立った。僕は、あの時吉良は結局失敗したんだぞ…、と友がうんこまみれになってトイレから出てくる姿を想像して笑った。

僕はドリンクバーに向かった。三度目だ。書かなかったが、駆けつけに一杯飲み干してすぐにまた一杯飲んでいた。無性に喉が渇いて仕方なかった。すぐ帰ってくると思っていた友人はしばらくしてすっきり顔で戻ってきた。

「子供も誰もいねえじゃねえかよ」

「えっ?マジで?」

当然、彼が入ってから子供は出てきていない、はず。大を済ましてきたことは彼の顔が雄弁に語っている。彼は運命に打ち勝ったのだ。

「どんな嫌がらせだよ!」

「いや、そんなはずは」

友人は僕の言葉を信じることもなく、その場は僕の悪ふざけということになった。この時もまだ、怖い、という感情は持たなかった。

明日病院に行くと決めたので、その日は居酒屋に行くことを辞めた。友人も僕が元気であることに異論はなかった。移動することなくドリンクバーで鎮座し、気温が下がるまで粘った。クーラーが壊れているから日中に帰りたくないのだ。夕飯は僕の部屋で土産代わりに買ってきた現地のインスタント食品を振る舞うことにした。

部屋に帰ると、また、むわあんとした、それこそ昨日まで居た東南アジアのように、蒸し暑い空気が立ちこめていた。友人は「海臭いな」と言った。僕は、数時間前に見た浴室のことも忘れ、「水着が生乾きかもしれん」と言った。

うまいだのまずいだのおかしく笑いながら異国の飯を食った。ノーフューチャーな友人はそのまま泊まることになった。扇風機一台の我が家は、下手したら昨日までいた熱帯の国の天井で今にも落ちてきそうな羽がくるくる回る食堂より暑かった。僕の体からは汗が止まることなく流れ続け、それのせいで僕の髪は乾くことが無いほどだった。僕はとにかく喉が渇いてしょうがなかった。ジュースなどではなく水が飲みたくてたまらなかった。水を飲みまくったせいで僕のお腹はカエルみたくぷっくりと膨れた。

夜も深まり、友人がシャワーを浴びている時、開けっ放しの窓の向こうで子供が騒ぐ声が聴こえた。こんな時間になにやってんだと気になった僕は窓から外を見た。そこには誰もいなかった。おかしいなと思い左右をよく見たけど、やっぱり誰もいなかった。

その時、浴室の友人が「うわあ」と悲鳴をあげた。何事かと思い、駆けつけると友人は僕を見るなり、

「冷てぇ」

と言った。どうやら、シャワーから出る水が急に冷たくなったらしかった。

浴室の扉を閉め、そんなことでいちいち悲鳴をあげるな、と叱ろうとした瞬間、また、子供が騒ぐ声が聴こえた。今度は玄関の方からだ。この時になって僕は急に怖くなった。騒ぐ声がどんどん部屋に近づいてきてることがわかったからだ。ひとりの出す音ではない、三人、いやもっと…、友人は呑気にシャワーを浴びている。僕が身動きできないでいるとついに、

どんどん、と玄関を叩く音。背中に冷や汗が流れるなんてもんじゃない、心臓がとまるかと思った。なおも、どんどん、どんどん、と玄関を叩く。友人は訝しげに、「早く出ろ」と言った。ばかやろう異常事態だろこれは、僕は声を大にして言いたかった。そうこうしてたら、

「おい、いるのはわかってんだぞ!!」

と、声がした。一瞬針を飲んだかのようにびくっとなったが、聞き覚えのある声だった。玄関を開けると、むわあんとした空気が流れ来て、その向こうには赤鬼のように顔を朱に染めた隣りの住人のおっさんがいた。おっさんも僕を見てぎょっとしたが、すぐに語気を荒げ、

「何時だと思ってんだばやろう!どったんばったんとまあよお、プロレスごっこでもしてんのかこの野郎!!」

よくある騒音の苦情だった。だが、音は僕達ではない。顔見知りを見て落ち着いた僕は、おっさんに、とりあえず音の原因は僕達ではないと言った。玄関から部屋の中を見せると、おっさんもわかってくれた。

「ごめんな、だけどなあ、確かに音がうるさかったんだけどなあ」

「前の通りからじゃないですか?それなら僕も聴きましたが」

「通り?ふぅん。でも、確かにあんたの部屋から聴こえたんだが、音も振動も」

「振動、ですか?」

「ふぅ…まあいいや、悪いけどこの際だ、あんたも静かに頼むよ。たまにうるさいよ」

「はぁ、すいません気をつけます」

おっさんは自分の間違いをはにかみながら肯定し帰って行った。

玄関を閉める。そして部屋の方を向く。子供がいる。ひやかし半分で浴室を開け、「おい、なるべく静かにシャワーを使え」と友人に注意を促す。ふう、と息をついてリビングを見る。子供がニヤリと笑って僕を見てる。あのファミレスのトイレにいた子供だ。僕はまた浴室の扉を開けると、「それからだな、まあなんだ、まあ頑張れよ」と、わけのわからぬことを言った気がする。リビングを見る。子供がいる。子供がいる。子供の目がおかしいことに気がつく。子供の両目が大きく、アーモンドみたいな形になって、顔の面積の大半を占めている。その目で僕を見てる。僕は股間を濡らしたことに気がついた。小便じゃないし、なにも股間だけじゃない。全身が濡れた。子供が近づいてくる。僕ははじめて言葉にならぬ声で叫んだ。