小さじいっぱいのマボロシ(12) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

小さじいっぱいのマボロシ(12)

「あなたは娘さんを呪った。なぜ娘は夫を救えないのか。こんな時になぜ娘は役に立たないのか。まあ、家族だからといって特別に適性が合うわけではないようですけど、あなたがそれを知らぬはずは無い。それでも、夫を救えぬむす」

「うるさい!うるさい黙れ!このウジ虫野郎が!黙れ!」

イザマを見る敏子の見開いた赤い目はまさしく常軌を逸していた。

「それからだ。娘さんに乱暴を働くようになったのは」

そう言うとイザマは椅子に腰掛け暴れる敏子の額を手で押さえた。椅子に座った状態で頭を押さえられると立ち上がることが出来なくなる。そんなちょっとした余興の芸を披露したイザマだが、これはまずかった。逃げるものを見れば追ってしまう本能、抑えられたら反抗しようとするのが人間だ。イザマの手はあっけなく暴走する敏子の腕に払われ、イザマも腕に体重を乗せていたものだから払われた際につんのめり、転げた。敏子の動きは弾む鞠のように機敏で、転げたイザマは襲いくる敏子に馬乗りを許してしまった。

「ごふ」

貧弱なイザマが立ち上がるには敏子は重すぎた。

「お前は役立たず役立たず役立たず。なんでよ。どうしてよ。お前は悪い子。悪い子」

鬼気迫る表情で敏子は腕を振り上げた。流石のイザマも恐怖を感じ、ついうわあと悲鳴をあげた。

「ちょっと私は男ですよ!」

アカリではないという意味合いだが、みっともない限りだ。無論、敏子の腕は止まらずに、ぶちんと高くも低くも鋭くも鈍くもない音をたて、イザマの頬に平手打ちがクリーンヒットした。

なにやらぶつぶつとつぶやきながら、敏子がイザマに二発目を叩きこもうとしたその時、うわあああ、と甲高い声がして、次の瞬間敏子の体がイザマから離れた。

「高梨君!?君は帰れと」

イザマは高梨に修羅場を見せたくなかった。敏子の狂態と敏子を追い詰める自身の姿を。

「そんなこと言ってる場合なの!?それとも余裕あるからそんなこと言ってるの!?」

立ち上がった敏子は「アカリ!?そこで何してるの!?」と絶叫した。

「まずいぞ。君をアカリさんと勘違いしてるみたいだ」

「どうすんのよ!?」

「よし」

「なに!?」

「いけ!やっちまえ!」

「出来るわけないでしょ!」

「なんだって!?」

「きゃあああ」

必死になって襲いかかる敏子と格闘すること数分、珍奇なる死闘の果てに、二人はなんとか敏子を抑えつけることに成功した。

「アカリは悪い子悪い子悪い子悪い子………」

観念したのかただ肉体が限界をむかえたのか、敏子は大人しく縛についた。といっても、敏子が座っていた椅子を用いて高梨が背もたれに乗っかりながら押さえているのだが。イザマは仰向けの状態から両手をつき半身を起こした体勢、開放型体育座りの体勢でゼエゼエ言っている。

「はあはあ、二人の、初めての、共同作業が、これってそんな」

「はあ、何か言ったか高梨君、はあ。まあいい。原田さん。あなたは原田敏子だ。あなたはご主人が亡くなられてから、今のように、アカリさんを暴行した」

青息吐息でイザマは敏子に語りかけた。

「なにが悪い!駄目な子は、役立たずは殴らなきゃわからないのよ!」

ひい、と高梨はうなった。

「あなたは、愛していた。誰よりも夫を愛していた。娘さんを愛していた。そしてアカリさんもあなたを愛していた。たった一人の母親を!大好きだった父親が愛していたあなたを!愛していたんだ!強く深くどこまでも愛していたんだ!」

言いながら立ち上がったイザマは敏子の頬をぶった。

「たまにあなたから受ける虐待も、明日来るいつもの優しい母を想えば、まるで昨日の出来事を覚えていない母を想えば、明日の運勢を占えば…あの子はいつでもあなたから離れることができたのに!あの子は秘密を秘密で隠してまでも、あんたからぶん殴られていることを隠して、あんたを守った!立派な母を!育ててくれた母を!愛している母を!愛してくれる母を!それなのにあなたは、気がつかなかったのかアカリさんの愛を!今までの家出もあの色の無い部屋に閉じ込めたんだろ!主張の無い部屋に!その主張の無さも、あんたを想えばこそなのに!思い出せ!思い出せ原田敏子!」

また、イザマは敏子をぶった。イザマの奇妙な瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。高梨は初めてみるイザマの姿に戦慄すら覚えた。

「ああううぅ」

「記憶を取り戻せ原田敏子!あの子の亡骸を土に埋めた記憶を!あの日あの時、あんたは何をした!?」

高梨は椅子からどいた。敏子にもう枷は必要なかった。

「あの日、私はあの日、アカリを、ああ、アカリを、アカリを」



しんとする色の無い部屋の中で寝転がったまま敏子は号泣しながらあの日の出来事を語った。定期的に起こる発作、度を越した暴力、動かなくなったアカリ、深夜にひっそりと埋めた。それはイザマの推測通りのものだった。あまりにも、イザマの推測通りのものだった。何度も何度も、私が悪い私が悪いと言い、何度も何度も、ごめんなさいごめんなさいと言い、全てを語り終えた敏子はふらりと立ち上がった。そのやつれきった顔は幽鬼を思わせるように青白く、まるで臨終前の老女のようで、人の面というよりは物質、物体。

「イザマさん、見せてもらったあの画像、偽物でしょう?」

敏子の声は鶴の鳴き声のようにしわがれていた。

「わかりましたか。あれは私が粘土で作った人形です」

「アカリは祈りを捧げるよう胸で手を組ませて埋めましたから」

「なるほど。私も2択で悩んだのですがね」

「ご迷惑をおかけしました。これから警察に行きます」

敏子はぽつりとつぶやいて、事務所を出て行こうとした。

「ちょっと待ちなさい」

イザマが去り行こうとする敏子を呼び止めた。敏子は歩みを止めたが振り返ることはしなかった。敏子の目にはもはや全てのものが背景の無い塊にしか見えなかった。

「原田さん、私達のことを警察に言ってはなりませんよ」

「ええ、承知致しました」

しわがれ声ながらはっきりと、敏子は言った。

「あと、それと、まだ依頼の代金をもらってないんですがね」

高梨はこの期に及んでそんなことを言うイザマを信じられないといった面構えで見た。

「いやね、確かに私は依頼を成功させたあかつきにと言い、私もこれは依頼に成功したとは言えない結末なのではないかと思うのですが、いやあ、今どうしてもお金が必要で。いやはや実は借金取りに付け狙われてまして。ふふん」

高梨にはわけがわからない。イザマは金持ちだ。不動産を扱っていた父親が一代で築き上げた会社を相続し、不動産を会社ごと売り払い、一生遊んで暮らせるだけの金を得、若くして隠居生活を営む身なのだ。

「おいくらかしら」

「それが色々と経費がかさみましてね。ちょうど100万円」

「はあ!?なにそれ!?私!?借金取りって私のこと!?100万円は欲しいけどこんなの、いらないよ私」

イザマはその捉えどころの無い顔に苦笑いを浮かべ、

「だそうです」

と、言った。敏子は振り返ることなく会釈をすると、静かに事務所を出ていった。コツコツとコンクリートの階段を打つ靴音が印象的な響きとなってイザマと高梨に届いたが、敏子の中では今、全てが静かだった。

「なんだったのあの人は。殴りかかってくるし、殺してるし」

敏子が事務所を出て行き、イザマがいつものように椅子に腰掛け隣のビルを見つめ始めた頃、高梨が無意識につぶやいた。

「高梨君。彼女もまた愛を求めていたのだよ。若くして夫に先立たれ、そのショックと無力感は想像に難くない。悲劇だよ。夫からの愛を喪失した彼女は知らず知らずアカリさんにそれを求めた。しかし、夫から受ける愛情と年端も行かぬ娘が親に与える精一杯の愛情は別物だろう?少しずつ少しずつ感情にずれが生じていき、それが悪い子、役立たずと相成った。もう二度と逢えない夫、だが彼女は夫の愛が欲しかったんじゃないかな。今は亡き夫の関心をひきたかった。決して叶うことのない夢を見たんだよ。とまあ、これはおれの筋書きだが、それは少し飛躍した考えかなあ。夫の死で悲劇の味を覚えた末の代理ミュンヒハウゼン症候群ってところか」

「代理なに?」

「ミュンヒハウゼン症候群。周囲の注目を集めたくて、悲劇のヒーローになりたくて、自分を傷つける精神疾患、といったところか。代理ミュンヒハウゼン症候群ってのは傷つける対象が自分ではなくて、まあ、アカリさんのように。これの特徴はな、積極的なんだよ。たとえば、ただの仮病ならば自分から病院へ検査に行くなんて言わないが、彼らは平気で言うし、実際行ったりする。彼女もやけにおれの捜査に協力的だった。おかしいほどに。しかし記憶もなかったからなあ。ただの、ただのってのもおかしいが、二重人格ってやつかもしれん。まあ、おれは警察でもなけりゃ探偵ですらない。ここで覗き見は終わりさ。もうおれの知ったこっちゃない。覗き見は全体像が見えないからこそのものだ、やぼはなし」

「うわ、なにそれひどくない?泣いてたくせに」

「ふふん、こう見えておれは昔…そうだ、君、今日はもう帰りなよ。疲れたろう。おれも疲れた。ああ、あのフィギュア、君持って帰るか?3分の1ぐらいは君がモデルだぞ。決定的に胸が違うが」

「いらないよ!もう帰る!…でもさあ」

「なんだ」

「いや、あってたらしいからいいんだけどさあ。今更かもしれないけど、土の中に埋めたって私ならポリバケツとかの中に入れるんだけどなあ」

「……住宅街にある民家の庭だぞ。ましてや仮にそれだけの穴を掘るスペースがあったとして、穴を掘り埋める時間と労力を考えはしないか?でもまあ、確かに君と違って胸が出っ張るから大変だったろうなあ」

「もういい!しつこい!」

イザマにからかわれ、目撃した気が狂いそうな悲劇に気を病む暇もなく高梨は帰った。高梨が帰ったあともイザマは一人でずっと壁を見ていた。ずっとずっと、陽が暮れても、月が出ても、ずっと、ずっと。




「ほう、なるほど、通りで足音が高梨君より若くないわけだ」

荻原がイザマのもとにやって来たのは、敏子が逮捕されてから3日が過ぎた夕暮れのことだった。

「相変わらずムカつくやつ」

荻原は苦虫を噛み潰した顔をして、どっかと来客用の椅子に腰かけた。

「ふふん。珍しいこともあるものだ。高梨君がここに連れてこられた時以来ですか。何か用でも?高梨君ならいませんよ」

「その時にリンちゃんのことを名字で呼ぶなと言わなかったかしらね」

「そんなことは私の勝手でしょう?高梨君を私に預けたのはあなただ」

「ふん。今もそうやってずっと壁を見ているみたいね。のうのうと生きている奴を見るとムカついてしょうがないわ」

「……おかげさまで」

冷え切った夫婦みたくただ淡々と言葉を交わす両者。両者の関係は姉弟、しかし、荻原は妾腹の子でイザマは正妻の子。成り上がりの家にはよくある話で、形は違うが、あえて言うなれば小早川秀秋と豊臣秀頼の関係か。

「ふん。大体ねえ。あんたなに考えてるのよ。リンちゃんに一人で訊き込みさせて。あの子に何かあったらどうするっていうのよ」

「あなたが心配する気持ちも充分理解出来ますが、高梨君をもう少し自立させるべきではありませんか?彼女は立派にやり遂げてみせましたよ。楽しそうだったでしょう?」

「ええ、散々自慢話を聞かされたわ。おかげさまで私も嬉しくなりました。でも、それとこれとは別の話」

「その話をしに来たのなら、私から言うことは何もありませんよ」

「安心なさい。その話はまた別の機会を設けますから。今日はあなたに悪い知らせをお知らせに来たのよ」