小さじいっぱいのマボロシ(11) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

小さじいっぱいのマボロシ(11)

9月中旬、都内某所、周りをオフィスビルに囲まれた古いチビたえんぴつビルの階段を、やつれ果てた中年女性が心臓を破らんばかりに駆け足で昇っている。カコカコと足音響く、風通しが悪いのだろう、気温湿度共に高く、ぬわっとまとわりく陰鬱な空気が、ただでさえ汗っかきだと見受けられるやつれ果てた中年女性の体の至る所から汗が吹き出すが、ハンドタオルでふき取る暇はない。中年女性は最上階である四階を目指している。初めてこの場所に訪れたのは3日前。

扉には呼び鈴がついていない。女はこんこんこんとノックする。しかし、返事はなかった。三回繰り返したが結果は変わらなかった。あまり意味をなさない深呼吸をしてドアノブを握る。前回同様、鍵は開いていた。ぎいい、と金切り声をあげる扉を開ける。目の前には壁、左右に続く廊下。ごめんくださいと声をあげたが、返事はなかった。晴れ渡る朝だというのに、相変わらず暗い。左手に進む。どたどたと音がなる。

「いやあ、お呼び出ししてすみませんね」

敏子からはイザマの後頭部と窓にかけ、組んだ脚だけが見える。こんな時だというのに、相変わらずこの男はビルの壁を見つめている。敏子は憤りを感じた。

「そんなことよりも、本当なんですか!?アカ、ぐむん、アカリが見つかったというのは!?早く、早く会わせてください早くすぐに!」

イザマの背後ろにある机をドンと両の手で敏子は叩いた。敏子は気がつかなかったが、イザマはいつものように窓から見えるビルの壁を見てはいない。両目を静かにつむり、脚こそ上げているが、その佇まいはまるで瞑想をしているようだ。

「今すぐ、には会わせられませんね」

「保護しなかったんですか!?ではアカリはどこにいるというのですか!?早く、早く会わせなさい私と!娘が!娘を!アカリは!」

敏子は半狂乱の体で、今にもイザマに掴みかかんらんばかりだ。

「まあまあ、落ち着いて、あなたに用は無いのですから」

「落ち着いてなんか!…あなたは何をおっしゃ、ぐむ、言ってるんですかっ!私に用が!?」

「まあまあ」

イザマは革張りの椅子をくるりと回し、敏子と面をあわせた。イザマの顔はただ面妖なだけで、何の感情も読み取ることは出来ない。ただそこにあるだけ、というような、忘れ去られた市松人形のような顔を浮かべている。その目は深く遠く、敏子と目をあわせているようで、後ろの本棚を見ているかのようでもあり、ふざけているかのようであり、真面目な顔をしているようでもある。一言で言うなら総じて気味が悪い。常人ならば、栗田のようにその面妖さに呑まれ、息をのむところだが、

「なんなんですか!?なんなんですか!人を馬鹿にするのもいい加減にしてください!あなたは!一体何がしたいんですか!」

敏子はそんなまやかしのような瞳に構っていられない。

「見つかったアカリさんをデジカメで撮りましてね。まだ現像こそしてませんが、見ます?」

イザマが静かに机の上に置いたデジカメを、敏子は荒々しく掴みとった。

「アカリ!?アカリ!これは!?」

デジカメの小さなモニターには、土の上に眠るよう横臥するアカリの姿が写っていた。

「あ、あ、アカリ、じゃない、これは、そんな」

「アカリさんじゃない?では二枚目を見ていただけませんか。操作方法わかります?その十字の矢印を下に押してください」

「そんな」

二枚目に写っていたものは少しふっくらしたアカリの顔のアップだった。所々黒い土に汚れ、髪の毛は幾筋か束になり、黒い土と相反するように血の気の引いた白い顔。しかし、優しく穏やかな顔。死顔。

敏子はそれを見て、胸の辺りををきつく握りしめた。輪ゴムで“絞り”をかけた染め物みたくよじれる衣服。苦悶とも無表情ともとれる敏子の表情からあっという間に色が失せ、また紅潮する。デジカメはかたんと無機質な音をたてて床に落ちた。無論これはイザマが寝ずに樹脂粘土で制作したジオラマを撮影したものだ。イザマは全身と背景、それと精巧な顔の3つを作った。作り物と侮ることなかれ、イザマの手から作り出されたアカリは、作り物と知っていればなおさら、気持ちが悪いほどの絶妙なる皮膚模様を持っている。著者は樹脂粘土で制作された見事なまでにリアルなネズミの赤ん坊を甲斐甲斐しく世話し始めた親ネズミの話を知る。ましてやショック状態の敏子、そのことを見抜けるわけもなかった。

「アカリさんは残念なことに、もうこの世にはいません」

立ち上がり、床に落ちたデジカメを拾いながらイザマはささやくよう言った。

「ううぅ」

静かに、静かに、敏子は嗚咽とは云えぬ、夢を見ている犬の寝言のようないななきを漏らした。

「一枚目の写真、この場所に見覚えはありませんか?いや、あなたには見覚えがあるはずだ」

刑事が警察手帳を見せるように、イザマはアカリの全身が写った一枚目の画像を短く提示した。

「ここは、あなたのうちの庭ですよ。同じ野菜が植えられていたでしょう?」

今度はアカリの横たわっていない敏子宅の畑が写った画像を提示した。

「もう一度、最初の写真を…」

「ええ」

イザマは今朝敏子宅の庭を荒らしに出かけた。それは敏子に庭というものを印象付け、敏子の中に眠るもう一人の敏子を呼び出しやすくする為だったが、腐臭たつ風に、ほっておいたら逮捕は間近だということを悟り、中止した。イザマは敏子を自らの手で地獄に叩き落としたかった。

「ああ、アカリ、アカリ、アカリが、アカリ」

長い沈黙のあと、「犯人は捕まったの?」と言った敏子に、イザマは深く、まどろむように呼吸をし、

「犯人?まだわからないのですか?犯人はあなただ。あなたがアカリさんを、実の娘を殺したのですよ。その手で」

しばし、敏子はイザマの言ったことを理解できなかったとみえ、沈黙が続いた。そして、

「なにを!なにを言うんですか!私が!?アカリを!?そんな馬鹿なことあるわけない!ふざけない!」

ふざけない!、と言い切られたのは小学生の時以来だな、とイザマは思い、ふふんと甘虫を舌の上で転がした。

「ふざけるのもいい加減にして!」

激昂する敏子。イザマはすうっとまた深く呼吸をした。

「私がどうこうするまでもなく今日中にあなたは逮捕されるだろうが、乗ってしまった船だ。思い上がったというわけではないが、私はどうしてもあなたに私の目の前で犯した罪の苦しみを味わって欲しい。なに、私はこう見えて根は真面目な人間なのですよ。真面目なね。子殺しを見逃せるほど不真面目ではない」

「なにを言ってるの!やめて!警察、警察呼ぶわ!あんたが、あんたが殺したのね!ちくしょう!」

今にも気がふれてしまいそうな敏子に、イザマは冷静に静かな語り口で語り出した。

「まあ、落ちついて。原田さん。あなたの身に覚えがないのもそれは理解できる。あなたが忘れているのなら私が思い出させてみせましょう。あなたが犯した罪を。…あなたは私に依頼をしに来た時、なんと言ったか覚えていますか?」

「…」敏子はイザマをきっと睨みつけるだけだった。

「あなたはね。私に、早く見つけないと娘は死んでしまう、と言ったのですよ。私はとても不思議に思いました。なぜあなたは死ぬと断言したのか。今までにも家出を繰り返しその度に戻ってきた娘が死ぬとなぜ言ったのか。普通そんなことは言いません。思いはするかもしれませんが、いや、思うたらばこそ、言葉に出すのはためらうはずです。ではなぜ。それはあなたが既にアカリさんが何か重大な事件に遭ったことを知っていたからです。あなたの脳裏にアカリさんの死が見えていたからです。先程見せた画像のような姿がね」

「そんなことあるわけないでしょう!私はただアカリの身を!」

「調査した結果、アカリさんの周りに、交遊関係の中にアカリさんを誘拐するような怪しい者はいなかった」

「そんなこと…全くの行きずり犯だとは考えないのですか!?」

「ははあ。それを言われてしまうと弱ってしまいますがね」

イザマはポリポリとこめかみを掻いた。

「だったら!」

「まあ、先程見せたように、幸か不幸か結果は出てしまっているのです。あなたのその日からの行動を考えれば、亡骸を隠す場所はあそこしか考えられなかった」

「ううぅ」

「あなたは占いを信じますか?ああいや、答えなくて結構。どうやらアカリさんは占いに熱心だったようだ。私あの日にアカリさんの携帯電話から占いサイトにたどり着いたと言いましたよね。あのサイト、有料でね。そのことを鑑みてアカリさんは占いを信じていたと言ってもいいのではないでしょうか。そして、占いにハマるような人物というのは、得てして抜け出せぬ現状に満足をしていないものです。何かに頼りたい。誰かに支えて欲しい。今日の運勢は、明日の運勢は、これからの運勢は、将来の運勢は、とまあそんなところですか。アカリさんの抜け出せぬ現状、それすなわち、あなたとの日々だ」

「なぜ、どうしてそんなことをあなたは言うんです。何も知らないくせに。私達のことをあなたは何も知らないくせに!」

イザマは努めて静かだ。

「あなたの仰っていること仰りたいこと、よくわかります。しかし、私の話をよく聞いて思い出してください。6年前ですか。ご主人がお亡くなりになったのは」

「そうです!それから私が、私達が二人で、どんな思いをして過ごしてきたか、あなたわかりますか!ああ、うう、アカリアカリが」

「わかりませんよ。わかりませんよ私には。さぞ辛かったことでしょう。ただただ辛かったことでしょう。その辛さ悲しさ、私には到底わかりません。…ご主人の病気は白血病でしたね。ドナーは見つかったのですか?」

敏子はやつれ且つ腫れた赤い目をかっと見開いた。

「見つかったか!?見つかったか!?見つからなかったから!見つからなかったから夫は!ううぅううぅ」

「そうでしょうね。アカリさんにも、その適性はなかったわけだ」

「うううぅ」

「血を分けた娘なのに、夫が愛した娘なのに」

「ううぅ」

敏子は髪をかきむしったり、強く掴んだりしながら、低くうめいている。

「愛する主人が苦しむ姿を前に、あなたは娘さんにどういった感情を抱きましたか?役に立てぬ娘に、かわいい娘に」

イザマがそう言うと、敏子の目がぶれるように揺れ、

「役立たず!役立たず!役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず………ううぅ」

そしてだむだむと太ももを両手で叩き出した。そしてイザマはニヤリと薄笑いを浮かべた。