小さじいっぱいのマボロシ(7) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

小さじいっぱいのマボロシ(7)

朝が来て、イザマの携帯電話が事務所の机の上でチチチチッと音を立てた。結局イザマはあの体勢のまま、いつの間にか寝ていた。それは普段からよくあることだった。画面に表示されている名前は高梨。ふあい、と、寝起きの声で電話に出ると、

「やっぱり寝てた」

と、高梨では無い声。

「あんたねえ、人に仕事を頼んどいてその生活ぶりは無いでしょ。あの子に…………」

イザマはうんざりして通話口から顔を離した。電話口の向こうではそんなことお構いなしにガミガミザアザアと、喚き散らしている。「いい気味だ」、そんな文句が聴こえた辺りで、イザマは通話を切り、電源を落とした。

あくびをしながら時計を見る。朝6時。「あああ」、そんな声にならぬうめきを上げると、奥の部屋で軽く支度をし、イザマは外に出た。とんたんと気だるげに階段を降りて行きながら、手にした甘めの缶コーヒーを飲み干す。「ああ、しまった。顔は洗わない方が良かったな」。

一階に設置されているゴミ箱に空き缶を放り込み、ビルから原付を出す。メットインからタバコを出して火をつけ、くわえタバコで、動き出そうとする街に繰り出した。

行き先は、敏子の家からの最寄り駅。

「ああ、いた」

ラッシュにはまだ遠い時間帯とはいえ、どこからともなく湧いて出た人達の中に、敏子はいた。傍目から見ると、他の通勤通学者と比べ敏子だけ“色”が違う。駅前で言い切り型のドグマが印刷された冊子を配る人のような、猫科の動物が獲物を狙っているような。

敏子のしている行動上、イザマが駅前ロータリーに入ってきた瞬間に敏子はイザマを見つけ出した。普通、遠くから互いを認識してしまった場合、気まずい雰囲気を漂わせながら進むものだが、イザマはぽてぽてと原付を押して、慌てることもなく、のろまな亀のように歩みを進めた。

「やあ、お早いですね。いや、遅くまでご苦労様といったところですか」

イザマのかけた言葉に、

「私に出来ることは、これぐらいですから」

そう返した敏子は、髪はほつれ、顔だけ若干痩せたように見える程やつれ、とっくりみたいだ。徹夜明け、憔悴している様子だった。

「いやね、私も昨日の夜から繁華街を見張ってたりしたのですが、なかなか見つからないもんですねえ」

この男は平気で嘘をつく。イザマののほほんとした口調に慣れたのか、気にする様子もなく敏子は、

「学校の方で何かわかったことはありましたか」

と訊いた。

「ふうむ、それがですね。少し考えて見れば、学校から得られる情報なんて、原田さんから聞いた話以上のものは無いに決まってるのですよ。これは失敗だ。お恥ずかしい限りで」

「そんな、あなたそんなことでよく」

敏子の続きを遮り、「私は素人ですからね」とのたまる。敏子のはらわたがもんどりをうってのたうちまわり、反動で牙をむく前に、

「しかし、学校側が把握していない、と言いますか、あまり表沙汰にしたくない、特に原田さん、あなたには伝えづらい事実をひとつ、掴みました」

イザマの言う事実とは、担任の栗田とアカリとの関係ではない。イザマはそれと今回の家出、失踪とは、長引けば必ずあなたの家に警察がやってきますよと言われ顔面蒼白の栗田自身も強く否定したように、全く因果関係が無いことを確信している。否、イザマの目には始めから敏子以外見えていない。きっと、もう、既に。

「実はね原田さん。アカリさんはどうやら、いじめられていたようなのですよ」

この男は平気で嘘をつく。始めから敏子以外見えていない。ではなぜ、わざわざ学校に繰り出したり、今も高梨を使いに出していたりしているのか、それは、希望にあえいでいるからだ。母親が実の娘を殺すなど、イザマは考えたくもないのだった。

「…あまり学校のことを話したがらない子で、でも、たまに変なアザをつくったりして、薄々、感づいてはいましたが」

敏子の目に見る見るうちに涙が溜まり、一筋、こぼれ落ちた。

「変なアザですか?詳しく教えてもらえません?」

「ええ、腕や、体の至る所に、顔以外に、アザが、まるでぶたれたようなアザで、その都度私はどうしたんだと訊くのですが、体育の授業だとか、体育祭の練習で出来たとか、そんなことを並べ立てて、だけど、やはり…ああ、まさか、その子達が!?」

本物の慟哭に、イザマは手を焼いていた。

「まあ、前例はいくらでもありますね」

「ああ、そんな、早く、早く見つけてやらないと」

敏子は反転し、走り出そうとした。が、出そうとしたところでイザマに止められた。

「まあ落ち着いてくださいよ。前例はあるといっても、やはり稀なケースですよ」

「だけど、私が動かなければ、娘は、アカリは」

「それに、そんな突発的な事態だったら、どうして家を出る前に携帯電話を放っておいたのですか。なぜ家出の準備をしたのですか。そのような事態はまずありません」

イザマの論理的な説明に敏子は、びくんと肩を揺らし勢いを削がれると、少し落ち着いたようだ。

「少し休みましょう。なに、ほら、あそこの店の二階席なんか良いでしょう。ここより全体を見渡せますよ。もう少し陽が昇ったら、もう一度、あなたの家に行きたいですしね。なに、下心はありませんよ。ふふん」

それから、夫婦と言われたら反論出来ぬ年相の二人はハンバーガー屋に入り、しばし無言で駅前ロータリーを見つめていた。

その頃、高梨は言われた通り学校近くにいた。もう二度と正門前付近には立たないと堅い決意を秘めていたが、この学校の最寄り駅は三つあることから、正門付近に陣取るより他になかった。しかし、今日は安心だ。一人じゃない。それに隣にいるのは自分よりおばさんというに相応しいおばさんだからだ。出社前の荻原が立ち会ってくれていた。

「ふうん。あいつがそんなアドバイスを」

「そう!そうなの!意味わかんない。当たり前じゃないそんなの、ね。いじめていたかと訊いて、はいと答えたら、それはいじめていたということだなんて。アホらし」

二人は別段こそこそしているわけではない。

「あいつは初めてあった時からそんな感じだったわ。何か考えて黙っているのかただ単純に、ぼーっとしてるから黙っているのかわからないやつで。すぐに後者だとわかったけどね。きっと父親のダメな方の遺伝子だけ受け継いだのよ。それか、まあいいわ」

「ふうん。でもさ。立場が逆だったらお姉ちゃんがあんな風に」

「なるわけないでしょ!私はこの仕事好きでやってんだから。天職なんだから。それなのにあいつはまるで隠居した老人の道楽みたいに始めやがって。あてつけだわほんと。ヤな奴。ああ、ところで、リンちゃん」

「ほえ?」

「あの男見てみなよ。向こうのあの二列目の、こっちに来るコソドロみたいな、やっすいシャツをダレッと着こなしてる男。あいつ浮気してるわよ」

「へー」

「へーってリンちゃん。理由聞いてよ」

「なんで?」

「あいつ、ほら、きょろきょろしてるでしょ。指輪をつけてるのは言わずもがなだけど、イヤホン付けてるわけでも無いのに目で辺りを探ってるでしょ。通勤途中の通い慣れた道の筈なのに。ああいう奴は浮気してるのよ。知らず知らず警戒心が行動に現れてるの。覚えておきなさいよ。伊達に浮気調査を千回以上もしてないわ。ああいうきょろきょろしてる奴は9割方浮気してたのよ。しかもあいつ教師だわ。あのダサさは」

「あー、ほんとだ。入ってった。凄いね。でもさ」

「なに?」

「浮気調査を依頼されるような男って大概浮気してるんじゃないの?それなら、そのデータってあてにならなくない?浮気してる男は9割方お米を食べてる、みたいなさ。だって私よくきょろきょろするし、あいつが教師なら、通学路なんだから生徒に」

「リンちゃん、あんた、あいつに似てきたわね」

「へ?」

「そんなことよりほれ、目を離さない!捜す捜す!ね」

「はい。…ところでお姉ちゃん」

「なに?」

「お姉ちゃんはなんで探偵になったの?」

「…探偵の仕事って基本、浮気調査とか素行調査なんだけど、金をもらって他人の修羅場を見るって、こんな楽しいことはないわ。好きなのよ。他人のゴシップが」