小さじいっぱいのマボロシ(3) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

小さじいっぱいのマボロシ(3)

そう言う当の本人の前にはアイスコーヒーが無いのだから、このイザマという男、心の底から人をおちょくるのを生き甲斐としているとしか思えない。

「では高梨君、そういうことだ」

重苦しく、ぎい、と鳴る金属扉を閉め、二人は猛暑の街へと降りて行った。イザマは不愉快なほど歩くのが遅かった。

大通りに出て、タクシーを捕まえる。

「じゃあ、よろしく」

イザマの言葉には道案内の意味だけでなく、料金の支払いの意味も、その面妖な顔いっぱいにたたえていた。

10分ほど走り、閑静な住宅街の中に敏子の家はあった。イザマは乗車中、無言でただ流れる風景を見ているだけだった。

「へえ、立派なモンですね。そして立派な門ですな。なんちゃって」

くだらぬイザマの冗談だが、家の門にはミニバラのアーチがかかっていた。植え込みから続くミニバラのアーチは閑静な住宅街に似つかわしいものだった。

「では、どうぞ」

「お邪魔しますよ、と」

歩くのは遅いが、この男には遠慮というものが無いらしい、ひょいひょいと勝手に中を歩き進み、ドアを開ける。

「あの、娘の部屋は二階の」

「ああ。ところで原田さん。何か冷たいものでも頂けませんか?」

憮然とした表情を浮かべながらも敏子は、麦茶でも、と台所に向かった。すると、

「ああ、どうせならコーヒーがいいですなあ。砂糖は小さじ一杯、甘いものは頭の栄養ですからねえ」

家の中の音とは、家人にとって、盲人の音にあたる情報だ。音の発生主が何をしているか手に取るように、イメージ映像が脳内再生されるほど、わかる。コーヒーを淹れながら、敏子の耳はイザマの音を聞き取っていた。

今、娘の部屋に入った。ベッドに腰をおろした。勉強机の引き出しを開けた。椅子に座った。椅子の高さを調節した。クローゼットの扉を開けた。閉めた。…………?

イザマの音が消えた。

敏子はお盆にアイスコーヒーをひとつ乗せ、娘の部屋に向かった。部屋に入ると、イザマの姿はなかった。

「イザマさん?」

敏子は最後に聞いた音の場所を少し開けた。

「やや、早くも見つかりましたか」

イザマはクローゼットの中で体育座りをしていた。手にはペンライトを持っている。

「何をしているのですか」

敏子は呆れ気味に言う。

「いやあ、入ったはいいものの、出れなくなっちゃいましてね。ふてくされてました。ふふん。危ないですよこの扉」

イザマはそう言いながら、扉を内側から全開し、外に出た。

「何か、わかりましたか?」

「そう焦らなさんな。しかし」

「しかし?」

「16の娘さんの部屋にしては、地味な部屋ですね。ポスターの一枚もなければ、コンポも、パソコンもない」

「そういう娘ですから」

「ふうん。雑誌もなく、本棚に教科書以外置いてない。テレビも、ビデオも、ヘッドホンもない。エロ本のひとつも」

「あるわけないじゃないですかそんなもの!」

「そんなものですかね」

「そんなものです!女の子なんですよ!女の子、女の子が今も、ひとりで、今も」

今にも伏せってしまいそうな母親の悲痛な声もどこ吹く風。

「ああ、はいはい。ところで、この机の引き出し、一段目の引き出しですが」

「鍵がかかってます」

「鍵は?」

「それが、わからないのです」

「では、諦めましょう」

「いいのですかそれで!?」

「まあ、見られたくないから鍵をしてあるのでしょうし、わざわざ、ねえ」

「ちゃ、ちゃんとしてください!私は依頼主ですよ!」

イザマはポリポリとこめかみをかくと、

「ちゃんと、はしてますがね」

と、つぶやいた。

娘の部屋で、学校のことや、交友、交遊関係を訊いたが、敏子は詳しく知らない様子だった。

「ふむ。では、行きそうな場所についてですが」

「私が知ってる場所は既に手当たり次第当たりましたが、いませんでした。昨日は時間の許す限り駅にいて、ずっとずっと見張っていたのですが」

「ほう。それはそれは」

「親なら当然のことです!」

「ふうん」

イザマは少し遠い目をして、

「時として、親の…」

と、言ったが、続く言葉はなかった。

屋根裏部屋まで、ハウスツリーをするように家を回り終え、一回のリビングにやってきた。結局今まで、イザマはアイスコーヒーに口をつけていない。その氷のなくなったコーヒーに口をつけるとイザマは、「甘い」と苦笑した。

「旦那さんは亡くなったと言っていましたが」

「ええ、あの子が10の時、病気で」

「へえ。それで、あなたは働きに出てるのですか?」

「はい」

「今は休んでいるのですか?」

「こんな時に働いてなんかいられると思いますか!?」

娘のことに、親の愛情度合いに話が及ぶと、敏子は目をひんむいて語気を荒げる。それを理解したイザマは電灯のスイッチをパチポチして遊んでいる子供のよう、定期的に出し入れする。

「ところで、私のような人間に調査を頼むということは、あなたのプライバシーに何らかの不利益を被らせることになりますが、よろしいですか?」

「はあ、例えば、どのような」

「そうですね。例えば、ご近所の人達にアカリさんのことや、家庭の様子を訊いて回ることもあるでしょう。もちろん、学校にも行きたいですね」

「構いません。そんなことより、とにかく娘を、早く」

「ふうん」

それから、改めて家庭のこと、娘の学校生活について、恋愛事情、そして互いの連絡先等々の会話を交わしたのち、イザマはアイスコーヒーを一気に飲み干した。

「きれいなお庭ですね」

庭の一画にある、畳二畳ほどの家庭菜園がリビングから見える。

「質実剛健、と言いますか。少しでも足しになればと」

「そうですね」

庭を見るイザマの目は遥か遠くを見ているようだった。あの椅子に座っている時も、彼はこんな目をしていたのだろう、敏子は思った。

「さて、では、おっと、ちょうどこんな時間ですか。早速学校にでも行きたいのですがね。原田さん、学校側、担任にでも連絡入れといてくださいよ。不審者と疑われたら、疑いを晴らす根拠という根拠も持ち合わせていないものでね」

「わかりました。今から向かうのですか?」

「一度事務所に戻りますがね。早い方がいいのでしょう?」

「わかりました。タクシー呼びましょうか?」

「いや、自分で。何かあったら連絡ください」

今まさに狐につままされているというような、ふわふわにされている敏子と別れ、大通りへと向かうイザマは、何を考えているのか、真面目な表情を浮かべ、笑いながら歩いていても怖いものがあるが、腕を組んで歩いている。その顔には残暑の白く熱い光線が容赦なく降り注いでいた。

「私もついていかなきゃいけないの?」

事務所に入ると、うら若き女、すなわち、高梨がイザマを待ち受けていた。帰り道に連絡を入れていたからだ。

「ああ、君は生徒を頼む」

「あーあ、ヤなのよね。絶対おばさんって言われるわ」

「おれは変態ジジイと呼ばれてしまうよ。それに…」

「それに?」

イザマはポリポリとこめかみをかいて、

「万が一、不良共に見つかってボコボコにされたら、ヤじゃないか」

「それってさあ、私ならいいわけ!?最悪」

「頭脳労働の探偵の相棒は肉体派だと、これ昔から決まっておる。だから大丈夫だ」

「だから?だからっておかしいでしょ。私のどこが肉体派だよ…ほんと、万が一が起こったら多額の賠償金を請求しますからね」

「…わざと、殴られるなよ?」

「ふん。ところでさあ、私にも彼女の写真分けてよ」

「ああ」

イザマは肩掛けカバンから写真を出した。肩掛けカバンはとてもしっかりした造りで、高そうだ。

「ああ、クラスにいたわあ。こんな子」

アカリの写真を見た高梨は興味深げに言った。

「というと?」

「ああ、なんかぼんやりした子というかね。とろーんとした目でさ。かわいいけど。全体的にとらえどころのない、うなぎみたいにぬめっとしてるというか。なんつうか、精神的に幼いというか。お母さんが夕食買いに行く時について行くような子」

「ふむ…」

イザマはまた腕を組んだ。

「なに?なんかあるわけ?」

「いやね、やっぱり面倒だなあ、と」

「はあ」

高梨は大きくため息をついた。そして、

「だったらあの人からの紹介だからって」

と、言ったが、言葉の途中でイザマが、

「それに」

と言った。

「それに、なんだよ」

「ああ、それに依頼主が犯人というものはやりづらい。おれは警察じゃないんだ。探偵でもないが」