あぶらかたぶら(1)
「学校は?」
目を覚ましてしばらく、おれは心配と安堵の入り混じる表情を浮かべている母親と、カエルに似た顔のナース、昔観たアニメに出てきた犬っぽい中華料理屋の店主そっくりの医師に向かって言った。包帯とプラスチックで固められたコツコツする頭ながらよく回ったものだ。
「学校?でも、そんな」
母親の混乱してる口文字を遮り、丸顔の医師が、
「うん、少し記憶が曖昧になっているようですね。ま、考えうる後遺症ですよ」
と、母に向かって言った。母はより一層目を赤くした。
カエルに似た愛嬌だけで生きてきたに違いないナースは満面の作り笑顔を浮かべ、
「だけどほんと目が覚めて、ねえ、良かったですよねえ」
おれはまた、昔のおれみたいに少し明るい調子で「いやいや、学校はどうなってるの?」と言った。母の目から涙がこぼれ落ちた。
おれは高校を半年で中退した。正式に退学届を出したのは一年後の秋で、それまでは休学扱いになっていた。理由は、あると言えばあるが、ないと言えばない。いじめられてたわけではないし、勉強についていけないこともなかった。おれは得意科目に限っては学年トップクラスの成績を修めていた。苦手科目は赤点ギリギリだったが。学校生活は充実し、なにより楽しかった。だけど辞めた。なんとなく辞めた。ただ漠然とした、口で説明することの出来ない感情のまま辞めた。担任の先生や両親、友達にも理由を説明していない。おれにだってわからないのだから致し方ない。ひねり出すように思いつく理由は、朝起きるのがとてもつらかったとか、電車に乗るのがとても苦痛に感じたとか、めんどくさいとかだった。そんなこと誰にも言えない。今思えばそれら思いついた理由は鬱病の症状に似ているが、おれは根っからの楽天家で、血液型占いなど信じちゃいないがステレオタイプのO型気質だ。脳天気な野郎なのだ。そもそも幼稚園の頃から定期的にズル休みをしていた。ただ単に学校に通うのが嫌いなだけだったんだろう。鬱はどんな奴でも誰でも発症するということは知ってい
るが、自己診断では鬱病のケすらない。
なぜお前は辞めるのかと問われたら貝になって、訊いてきた相手が「勉強なんか将来役に立たないと思ったのか?」とか、「ちょっと疲れたんだよね」とか、そんなおれの思ってもいないことに頷いた。
高校を辞めてから、正確には休学中からは終日怠惰な生活を送った。もちろん朝に起きるなんてことはしない。わりかし校則の厳しい私立の進学校だったからその反動だろう、親や教師がおれの不登校を受け止めた頃、髪を金髪に染めた。
そう言えば休学中、いや、ややこしいがこの時はまだ休学届を出していないただの不登校の時期だ、おれは一度だけ学校に行った。三月の終業式。担任に請われ、また学校自体は嫌でもなんでもなかったし、懐かしくもあったのでおれは素直に赴くことにした。金髪で終業式に参加したのはこの学校始まって以来おれだけだろう。先輩方も後輩達もみんなおれを見た。おれはみんなの視線に嫌気がさして式を途中で抜けると、式の行われている体育館横の非常階段に出て煙草を吸い、解散を待っていた。この行動は在校中のおれからは考えられぬ行動なのだが、おれは不登校になってからどこか図太くなっていて怒られようがなにされようが構わなかった。煙草に火をつけて二、三回煙をくゆらせていると、静かに階段を上ってきたある体育教師に見つかった。その体育教師は学校一怖い教師で、体罰上等、校門の番人、一人風紀委員、彼の前では不良共も直立不動になることが刷り込まれている。背中の産毛が逆立ち、おれは煙草を隠すことも叶わず、階段に座り尽くしていた。そんなおれに体育教師は無表情のまま近づいてくる。おれは鉄拳制裁を覚悟し、ぎゅっと歯を食いしばった。し
かし体育教師は、
「腹でも痛くなったか」
と、木訥な口調で言った。その顔は初めて見る優しい笑顔になっていた。
「は、はは、はい」
ひとまずの緊張が和らぎ、腹をさすりながら苦笑いをしておれが取りつくろうと、体育教師はおれから煙草とライターを奪い、座りながら一緒に吸った。不良でもなんでもなかったおれらしくないなかなか良い思い出だ。その後は特に何か起こることもなく、最後の登校は終わった。
バイトもしたが長続きせず、二十歳を超える頃には立派なニートになっていた。家族関係も悪化し、覆水盆に返らず、引くに引けなくなったおれは家庭内ひきこもりになった。外出は平気だったから完全なひきこもりではないだろう。この間親と一言も口をきいていない。だからこそ効果があったのだ。
気がつけばあっという間に二十五歳無職になっていた。将来に不安がないはずがない。高校中退職歴無し。人生終わってる。高校を辞めたことを後悔していないと言えば嘘になる。あの時辞めなければおれは普通だったんじゃないか、今なら絶対に辞めないんだけどなあ。やり直せたらああしようこうしよう。そんな現実逃避が暇を持て余した脳内を駆け巡る。しかし、時計の針は戻せない。だがしかし、だ。
その日おれはいつものように日課のコンビニ通いに出かけた。親の財布から頂戴した小銭で煙草とコーヒー、多めに頂戴した日には弁当などを買う。おれの生活は昼夜逆転どころではなく、人間の体内時計は一日二十五時間だというがそれまさしく毎日毎日起床時間が少しずつずれる。午前中など早めに目覚める期間は最悪だ。ひきこもりだから真夜中まで空腹を我慢しなくてはならないし、真夜中までずっと暇だからだ。弁当を買うのは午前中に起きる期間だった。
コンビニに通うのはカロリーとニコチン摂取の為だけではない。恋だ。かわいい好みのタイプどストレートのバイトがいるから、彼女を一目見るために通った。彼女を見る為に生きている日々だと言ってもけして過言ではない。彼女を目撃出来ない日は世界が白黒になった。なんせ暇を持て余しているひねくれた若い男のこと、限りなくストーカーに近いこともしたものだ。結局は話しかけることもしなかったが。恋に釣られて働く決意などしたが、バイト面接に三回落ちてこれもまた辞めてしまった。
彼女を見る為にコンビニに向かったのだが、しかしその日は、いつもなら確実に居る時間帯のはずなのに彼女の姿はなく、白黒の世界を背景にとぼとぼと帰路についた。時刻は夕暮れ。どうやって死のうかを考えていた。
おれも通っていた小学校の通学路になっている狭い歩道にさしかかったところで、これは擬態ではなく本当に記憶が途絶えている。気がついたら病院のベッドの上だった。なんでもその歩道脇にあったガスボンベが爆発したとかで、おれはそれに巻き込まれ、倒れたらしい。爆発の衝撃により飛散した金属が左側頭部をかすめ、左側頭部に穴が開いて脳みそが露出していた状態で発見されたという。我ながらというべきか医学の発達には目を見張るというべきか、よくこうして生き返ったものだ。死ねなかった、ともいえるかもしれない。救急治療を受けたのち設備の整った大学病院に運び込まれた。おれは十日程寝ていたらしい。
病院で目が覚める前、おれは夢を見ていた。巷でよく云われる三途の川だとかお花畑だとかではなく、現在の成長した姿のおれが学生服を着て授業を受けている夢だった。この夢を見なければこの作戦を思いつかなかっただろう。
おれは思いがけず人生のリセットボタンを押すチャンスを与えられたのだ。目を覚ましたおれはニート期間の記憶をなくしたフリをした。時計の針は戻ったのだ。高校を中退する以前に。
続
目を覚ましてしばらく、おれは心配と安堵の入り混じる表情を浮かべている母親と、カエルに似た顔のナース、昔観たアニメに出てきた犬っぽい中華料理屋の店主そっくりの医師に向かって言った。包帯とプラスチックで固められたコツコツする頭ながらよく回ったものだ。
「学校?でも、そんな」
母親の混乱してる口文字を遮り、丸顔の医師が、
「うん、少し記憶が曖昧になっているようですね。ま、考えうる後遺症ですよ」
と、母に向かって言った。母はより一層目を赤くした。
カエルに似た愛嬌だけで生きてきたに違いないナースは満面の作り笑顔を浮かべ、
「だけどほんと目が覚めて、ねえ、良かったですよねえ」
おれはまた、昔のおれみたいに少し明るい調子で「いやいや、学校はどうなってるの?」と言った。母の目から涙がこぼれ落ちた。
おれは高校を半年で中退した。正式に退学届を出したのは一年後の秋で、それまでは休学扱いになっていた。理由は、あると言えばあるが、ないと言えばない。いじめられてたわけではないし、勉強についていけないこともなかった。おれは得意科目に限っては学年トップクラスの成績を修めていた。苦手科目は赤点ギリギリだったが。学校生活は充実し、なにより楽しかった。だけど辞めた。なんとなく辞めた。ただ漠然とした、口で説明することの出来ない感情のまま辞めた。担任の先生や両親、友達にも理由を説明していない。おれにだってわからないのだから致し方ない。ひねり出すように思いつく理由は、朝起きるのがとてもつらかったとか、電車に乗るのがとても苦痛に感じたとか、めんどくさいとかだった。そんなこと誰にも言えない。今思えばそれら思いついた理由は鬱病の症状に似ているが、おれは根っからの楽天家で、血液型占いなど信じちゃいないがステレオタイプのO型気質だ。脳天気な野郎なのだ。そもそも幼稚園の頃から定期的にズル休みをしていた。ただ単に学校に通うのが嫌いなだけだったんだろう。鬱はどんな奴でも誰でも発症するということは知ってい
るが、自己診断では鬱病のケすらない。
なぜお前は辞めるのかと問われたら貝になって、訊いてきた相手が「勉強なんか将来役に立たないと思ったのか?」とか、「ちょっと疲れたんだよね」とか、そんなおれの思ってもいないことに頷いた。
高校を辞めてから、正確には休学中からは終日怠惰な生活を送った。もちろん朝に起きるなんてことはしない。わりかし校則の厳しい私立の進学校だったからその反動だろう、親や教師がおれの不登校を受け止めた頃、髪を金髪に染めた。
そう言えば休学中、いや、ややこしいがこの時はまだ休学届を出していないただの不登校の時期だ、おれは一度だけ学校に行った。三月の終業式。担任に請われ、また学校自体は嫌でもなんでもなかったし、懐かしくもあったのでおれは素直に赴くことにした。金髪で終業式に参加したのはこの学校始まって以来おれだけだろう。先輩方も後輩達もみんなおれを見た。おれはみんなの視線に嫌気がさして式を途中で抜けると、式の行われている体育館横の非常階段に出て煙草を吸い、解散を待っていた。この行動は在校中のおれからは考えられぬ行動なのだが、おれは不登校になってからどこか図太くなっていて怒られようがなにされようが構わなかった。煙草に火をつけて二、三回煙をくゆらせていると、静かに階段を上ってきたある体育教師に見つかった。その体育教師は学校一怖い教師で、体罰上等、校門の番人、一人風紀委員、彼の前では不良共も直立不動になることが刷り込まれている。背中の産毛が逆立ち、おれは煙草を隠すことも叶わず、階段に座り尽くしていた。そんなおれに体育教師は無表情のまま近づいてくる。おれは鉄拳制裁を覚悟し、ぎゅっと歯を食いしばった。し
かし体育教師は、
「腹でも痛くなったか」
と、木訥な口調で言った。その顔は初めて見る優しい笑顔になっていた。
「は、はは、はい」
ひとまずの緊張が和らぎ、腹をさすりながら苦笑いをしておれが取りつくろうと、体育教師はおれから煙草とライターを奪い、座りながら一緒に吸った。不良でもなんでもなかったおれらしくないなかなか良い思い出だ。その後は特に何か起こることもなく、最後の登校は終わった。
バイトもしたが長続きせず、二十歳を超える頃には立派なニートになっていた。家族関係も悪化し、覆水盆に返らず、引くに引けなくなったおれは家庭内ひきこもりになった。外出は平気だったから完全なひきこもりではないだろう。この間親と一言も口をきいていない。だからこそ効果があったのだ。
気がつけばあっという間に二十五歳無職になっていた。将来に不安がないはずがない。高校中退職歴無し。人生終わってる。高校を辞めたことを後悔していないと言えば嘘になる。あの時辞めなければおれは普通だったんじゃないか、今なら絶対に辞めないんだけどなあ。やり直せたらああしようこうしよう。そんな現実逃避が暇を持て余した脳内を駆け巡る。しかし、時計の針は戻せない。だがしかし、だ。
その日おれはいつものように日課のコンビニ通いに出かけた。親の財布から頂戴した小銭で煙草とコーヒー、多めに頂戴した日には弁当などを買う。おれの生活は昼夜逆転どころではなく、人間の体内時計は一日二十五時間だというがそれまさしく毎日毎日起床時間が少しずつずれる。午前中など早めに目覚める期間は最悪だ。ひきこもりだから真夜中まで空腹を我慢しなくてはならないし、真夜中までずっと暇だからだ。弁当を買うのは午前中に起きる期間だった。
コンビニに通うのはカロリーとニコチン摂取の為だけではない。恋だ。かわいい好みのタイプどストレートのバイトがいるから、彼女を一目見るために通った。彼女を見る為に生きている日々だと言ってもけして過言ではない。彼女を目撃出来ない日は世界が白黒になった。なんせ暇を持て余しているひねくれた若い男のこと、限りなくストーカーに近いこともしたものだ。結局は話しかけることもしなかったが。恋に釣られて働く決意などしたが、バイト面接に三回落ちてこれもまた辞めてしまった。
彼女を見る為にコンビニに向かったのだが、しかしその日は、いつもなら確実に居る時間帯のはずなのに彼女の姿はなく、白黒の世界を背景にとぼとぼと帰路についた。時刻は夕暮れ。どうやって死のうかを考えていた。
おれも通っていた小学校の通学路になっている狭い歩道にさしかかったところで、これは擬態ではなく本当に記憶が途絶えている。気がついたら病院のベッドの上だった。なんでもその歩道脇にあったガスボンベが爆発したとかで、おれはそれに巻き込まれ、倒れたらしい。爆発の衝撃により飛散した金属が左側頭部をかすめ、左側頭部に穴が開いて脳みそが露出していた状態で発見されたという。我ながらというべきか医学の発達には目を見張るというべきか、よくこうして生き返ったものだ。死ねなかった、ともいえるかもしれない。救急治療を受けたのち設備の整った大学病院に運び込まれた。おれは十日程寝ていたらしい。
病院で目が覚める前、おれは夢を見ていた。巷でよく云われる三途の川だとかお花畑だとかではなく、現在の成長した姿のおれが学生服を着て授業を受けている夢だった。この夢を見なければこの作戦を思いつかなかっただろう。
おれは思いがけず人生のリセットボタンを押すチャンスを与えられたのだ。目を覚ましたおれはニート期間の記憶をなくしたフリをした。時計の針は戻ったのだ。高校を中退する以前に。
続