アラクネ(22) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

アラクネ(22)

「超すごかったんだよ!最後の方なんか店長みたいなおっさんにボッコボコに蹴られてもミシモは離さなかったんだから!超かっこよかった!」

興奮覚めやらぬ様子ではしゃぐホノカ。常連客は「今日はにぎやかだね」と言い残し、帰って言った。貸切である。

「すっぽんみたいにさ!」

「確かにありゃえぐい決め具合だったな。恐ろしさを覚える程だった。かのインテリジェントモンスターを彷彿とさせたな。あの人脚が伸びたんじゃねえの?片脚だけだが。ふふん」

カズタカも爽快感を隠しきれない。

「でさ、帰る時にミシモが、弁償代だ釣りはいらねえ、って言って万札ぴらって投げたら、何を思ったかあの女それびりびりに破ってさ。きゃは。傑作!」

これにタケハルの伯父が応え、

「はあ、うちの母ちゃんもそうだが女を怒らすもんじゃねえな。かわいらしい顔して、おっかねえもんだ。その点うちの母ちゃんはかわいらしさのかけらもねえ。ったく、踏んだり蹴ったりだな」

と、言うと、

「うるさいねえこの人は、踏んづけられたり蹴られたりの間違いだろ。踏んだり蹴ったりしてるのはあたし。あんたなんかあたしが嫁に来なけりゃそこらで野垂れ死んでるよ」

そう言ってタケハルの伯父と伯母は、あとは若いもの同士でとばかり店の奥に引っ込んだ。

「おい、どうした?」

カズタカに言われ、凍った顔の寿司職人は手を止めた。その手には最後のたこが握られていた。

「あ、ああ。それはすごいな。俺も行けゃ良かった。行っとけば」今日の出来事を回避出来たのに。

先程のことが気になってはいるもののわざわざ恥を晒してまでみなに言う程のものではないと判断した。

「何そのたこ」

ホノカの注文はかっぱ巻きだった。

「ああ、このく、も…ううん、たこな。中途半端に残っちまって」

今口から出た、蜘蛛、は単なる言い間違いである。

たこぼうず親子の会話をちらりと聞いていたミシモもタケハルの蜘蛛とたこの関係にピンとはこなかった。

「あたし達ゃディスポーザーじゃないってのに。かっぱ巻きよかっぱ巻き。酢飯と海苔とキュウリによる奇跡の集合体、青竹にござ巻いて人体再現試し斬り、かっぱ巻き巻きかっぱ巻き」

「なんじゃそりゃ。たこはサービスでいいよ。在庫一斉放出だな。まかないともいう」

「ゴミ処理ともいう。あたし達ゃディスポーザーじゃ」

「いらねえか?あと、今日の具合だと、大トロも中途半端に余ってるなぁ。そうか、いらねえか」

「あたしののどちんこって高速回転するの知ってる?」

「のどちんこってお前。仮にもレディがお前」とカズタカが苦笑う。そんなカズタカを無視しミシモが、

「おい、ヒラメにウニにエビにイカにあとなんかひかりもんは中途半端に余ってないの?」

と、欲張った。

ミシモは今日の一件でとてもすっきりしていた。糞詰まりをいきんでいきんで排出したあとの体の如く、ぽっかりと穴が開いたように身も心も軽くなった。便秘の排出に切れ痔がつきもののように、蹴られた背中の痛みが愛らしく心地良い。そして土師マユミを亡くした痛みも、今まで槍を持った虫歯菌みたいな悲痛に刺され苛まされてきた、またその悲痛を煩悶をあるがままに受け入れてきたが、その痛みも背中の痛みにより一枚のフィルターを挟んだかのように、鈍くなった。

「うちの大将が居なくてよかった。あの人後先考えないところあるからな。悪いがうちは慈善事業じゃないんでね」

「寿司屋が慈善事業じゃなけりゃ何が慈善事業なんだよぉ。うわ、さっき見栄張って諭吉やらなきゃよかった。新渡戸、じゃなくて一葉でよかったんじゃねえの?そもそも払う必要あったの?得してねえかあいつら。あー今になって惜しい」

「ミシモかっこわる!前言撤回幻想がびーん」

「せめて友達割引とかしろよぉ。食い逃げるぞ」

「逃げきれるかよ。友達だからこそ、敢えて利益率のいいものを注文するもんじゃねえのか?」

「それは違うだろ。友達だからこそ友達に不利益を被らせるんだ。本当の友達同士ってのは互いに気を使ったりなんかしない。相手をおもんばかったりしない。そんなことは浅い付き合いだからこそしなくちゃならないものだからな。互いにそれなりに楽しむなんてそんな都合のいい関係なんてクソだね。本当の友達ってのは」

カズタカは自分に酔いしれているかのように語った。が、

「じゃあさぁ、余りもん寄せ集めて丼ものとか出来ないの?内容によっては三百円まで出す。動いたらお腹減った」

「わかった。三百円分出すならそれなりのものを提供しよう」

「あ、じゃああたしもそれ」

「お、おい」

「何?カズタカあんた注文は?」

カズタカの戯言、繰り言はミシモ達に一切聞かれていなかった。

「あ、そうなんだ」

悟り、諦め、虚無、呟き。

「は?なんだよ、カズタカ」

しんとした。

「タケハル、俺には優しさをくれ」

「…悪いな。入荷待ちだ。永遠に」

それから四人は話をした。馬鹿話の陰に本音を交えながら。

「野崎ってどうしてるんだ?」

「連絡が取れない。おばさんに聞いたところ、まあ、元気っちゃ元気らしいよ。なんかの宗教にはまったらしいけど。仕事も休んでるらしい」

「ま、それも普通の反応だわな」

ころんと鳴るロックアイス。タケハルが手持ち無沙汰とほめられたい一心から包丁で削ってみせたまろやかな氷球。

「野崎って仕事何やってんの?」

「アヤは確かホテルって言ってた。どこかは知らないけど」

「ホテルか、ホタテ食うか?」

「しっかし、俺らも本腰を入れなきゃならないのかもな。アニミズムの観点からすると」

「そんなこと言ったらあたしかっぱ巻きの幽霊に殺されるっての。あ、そうだ、あたし最近ストーカーが出来たみたい!」

「嬉しそうに報告することか?」

「だって初めてだからさ」

「ストーカーねぇ。記者じゃねえの?雑誌の」

「あ、そっか。うわ、一気にげんなり」

「初めからげんなりするべき問題だぞホノカ」

「あたしの恋心つんつん返せぇ」

「それを自滅という」

「まだそうと決まったわけではないけど。気をつけなね。カズタカみたいな変態かもしれない。そいつが記者だとしても、カズタカみたいな変態かもしれない」

「しつこいよ!俺は変態じゃねえ!むしろ変態じゃねえから悩んでんだ!変態ってのはエネルギーの塊だからな」

「変態になりたいなんて、変態じゃない」

「そうともいえんのだこれが」

「ホタテを汁にしてみた」

「普通に出せよ。手を加えんな手を。まずかったら金払わねえ」

「ホタテをなめるなよ、か」

「お前は黙ってろ!永遠に」

酔うことが許された空間、時間、環境。体に染み渡るアルコールが夢見心地に誘う。夢見心地に。

平日ということもありパーティーは早めにお開きになった。ミシモは部屋に帰ると、大学時代マユミと二人で研修に行った先の、思い出の日本酒を静かに飲み空になった猪口を夜空に輝く月に向けた。笑顔がこぼれた。「あんたのフィニッシュホールドは便利ね。なはは」

誰もいなくなった店の後片付けを始めたタケハル。カウンター前の冷蔵ショーケースを掃除していると、冷却管の周りに溜まる白い棒状の霜の中に同じ色をした蚕の繭みたいな塊を見つけた。それはたこの置いてあった場所であった。

「布巾のきれっぱしか」タケハルはそう思っただけだった。だが、それは紛れもないジグモの巣であった。

一ヶ月後、たこぼうず家族がやって来た日、己タケハルは調理場で腹を割いて死んだ。作中、腹を裂く、と、裂の字を充てて来たが、タケハルの場合、腹を割いて、と書くのが適している。手に持った柳葉包丁で腹をかっさばいたからだ。